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健康ブログであるような、ないような

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サメの群れのなかで泳ぐときは血を流していないときに

三つ編み

 

レティシア・コロンバニ『みつあみ』を読んだ。インドの不可触民のシングルマザー、イタリアの町工場を受け継いだ女性、カナダのシングルマザーの女性弁護士という、困窮のなかにある三人の女性の自立の物語で、最後に三人の人生がつながるので、「みつあみ」というタイトルになっている。フランスではたくさんの文学賞をとって話題になったらしい。

いずれも突然の人生の岐路に立たされる三人の物語だが、一番興味をそそられたのが弁護士だ。サラは敏腕弁護士のワーキングウーマンだが突然乳がんの宣告を受ける。同僚に隠して治療するつもりだったが、ライバルに気づかれて暴露され、仕事を奪われてしまう。

 

まるであやまちの現場を押さえられたように、この若手を前にびくついているのが、ふいに愚かしくなる。癌なのは犯罪ではない。それに、イネスに弁解すべきことは何もなく、彼女にも、誰に対しても負い目はない。〔…〕イネスはこの情報をどうするだろう?暴露するか?サラは引き返し、廊下のイネスに追いついて、何も言わないでと懇願したくなる。だが我慢する。そんなことをすれば、自分の弱さを認め、イネスを優位に立たせ、力をもたせるようなものだ。〔…〕

忘れていることがひとつだけ、とはいえそれは長年キャリアを積んで学んだことだーーサメの群れのなかで泳ぐときは、血を流していないにかぎる。〔…〕

ガラスの天井を打ち破った彼女がいま、健康な者とそうでない者、病人、弱者、もろい者を隔てる見えない壁にぶちあたり、弱者の側にいる。ジョンソンとその一味に、葬られつつある。墓穴に投げ込まれ、山盛りの微笑みをかけられ、しらじらしい同情で突き固められ、ゆっくりと埋められていく。職業上、死んでいる。

 

 私も職場の同僚(女)に乳がんのことをばらされて、いやがらせを受けたので、全く同じだった。サメの群れのなかで泳ぐときは血を流していないときに・・・は言い得て妙だ。それにしても、こういう観点からのキャリアウーマンの罹患が日本ではほとんど語れないのはなぜだろう。病の恐怖と、脱毛の恐怖(ここが山場ね)、家族愛、そして健康のためのとめどもない消費、というお決まりの観点しか描かれない。

そういえば、病気になったときに自分を責めがちになるのは、日本人独特の罪悪感なのか、弱者ゆえの劣等感なのか、と以前から考えていたが、先日「公正世界仮説」という説に出会った。世界は信賞必罰で、正しい者は勝ち、間違った者は負ける。よい事をすれば報われ、悪いことをすれば罰を受ける。だとするならば、大きな病になった者は悪いことをしたに違いない・・・だから、自分自身の中に原因を探してしまう。生活が乱れていたせいだとか、発症のころストレスがあったせいだとか。だがそういう姿勢は自分で自分を傷つけ、自分を被差別者に追い込むので、やめた方がいい。