ergo sum

健康ブログであるような、ないような

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 自分の生殺与奪の権利を

「真夜中、ひとり目覚めたとき、愕然とすることがあるんです。とても不安でね。何が不安なんだろう。それは人間が生きるにあたって、もっとも必要なものからドンドン離れていっているという現実なんですね。自分の生殺与奪の権利を、知らない誰かに握られてしまっているという現実。」

藤本敏夫氏はもと全学連の闘士でその後自然運動などに入られた人だが、肝がんで亡くなられた。自然農業なんていうと、昔は菜食主義者などと同じ一種の「〜イズム」にすぎず、自分勝手なこだわりだとしか思わなかったのだが、最近はそれが必要なことなんじゃないかと感じるようになってきた。今日は田舎から送ってもらったとれたてのおっきな栗をたくさんほおばったが、そのおいしかったこと! 健康に気をつける、といっても、自然系スーパーで高めの有機なんたら野菜を買うくらいしか思いつかないが、そういうところも、流通機構や生産の様態を含めて、本当に信頼できるかどうかはうがたわしいと思う。なぜならば、「自然」「安全」を呼称につければ「売れる」わけだから、質が低くてもそういうラベルがはられるのは資本主義の宿命なのだ。そういうことに騙されていてはいけないはずだ。
自分の生殺与奪の権利を、知らない誰かに握られてしまっているという現実」という感覚は、がんになってみて初めてわかることだ。自分の人生を自分で動かしていたつもりなのに、実はそうじゃない。いい意味での神や超越者に運命を支配されている、っていうストア派的な諦念じゃなくて、なんかよくわからない「悪いもの」に自分の運命が支配されてしまっている、という実感。気づいたときは手遅れ。高度資本主義、あるいは大衆社会というのは、もうかればそれでいい、騙せればそれでいい、ばれなければそのままでいい、という人間の怠惰と欺瞞が根底にあって、それによってお互いがお互いを不幸にしあっているような気がする。
厳しいことをいうと、団塊の世代は、フォークギター片手に酒やたばこの退廃的な生活(?)と体制への不満や反抗が一種のスタイルだったから、今頃になってみんなが肝臓や肺の病気にかかって早死にしている。奥さんの加藤さんは、藤本氏の病因は運動の過程でリンチを受けたりしたことのせいだととらえたがっていたけれど、実際はどちらかというと日々の生活習慣の影響の方が大きいのではないかな。無駄に人を不幸だと感じさせて、無駄に自分を慰めるために酒やたばこを消費させて、無駄に病気にさせて、無駄に治療や癒しにお金を出させて・・・そういうマッチポンプそのものが、現代社会を動かしている根幹であるような気がしてならない。
青い月のバラード―獄中結婚から永訣まで