ergo sum

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 良識の分配

せっかくの三連休もこの猛暑では何もできず、自宅でじっと身を潜めている。持ち帰りの仕事がやまほどあるのだが、見て見ぬふりをしている。

良識はこの世で最も公平に分配されているものである。(デカルト方法序説』)

良識とは「社会人としての健全な判断力」(広辞苑)のことであり、これはあらゆるカテゴリーの人間に対して、じつに見事に公平に分配されている。日本人は(出羽おば口調で失礼!)えてして、権力者や高学歴者にこそたくさん良識が備わっていると信じ込んでいて、その裏返しに、彼らが汚職やチカンをすると「○○なのに!」とヒステリックに憤慨する。権力者は道徳的に優れた人間に違いないという「水戸黄門思想」は、裏を返せば庶民は劣っている、という差別感の内面化にほかならない。長い時間をかけてそんなすりこみをやってきたのは、もちろん、権力者の側だろう。受け入れる日本人の方もお人よしすぎると思うが。
だが権力者というのはたまたま金持ちの家に生まれついたとか、たまたま政治家の環境にいただけなので、その身分が彼の道徳レベルを示すはずが無い。政治家の汚職なんてあたりまえだ、という前提でもって、市民としての損得からさらっと政治非難ができるようにならなくては、いつまでも日本は政治後進国(つまり政治家の言いなり)だろう。こうした「政治家=立派」幻想がまかり通る理由の一つが、政治家との距離の遠さだ。自分とは全然違う、立派なおかただ、と思うからこそ妄想も高まるのだろう。参政権さえあれば誰でも政治家になれるはずなのに、「特別な人」でないと立候補できない、という奇妙な自己規制を私たちは自分に課している。というか、こういう自己規制こそが、政治家の既得権を守り続けてきたんだろうなあ。
で、良識の分配に実感した理由の一つが、人に薦められて試してみたブラウザ上の戦争ゲームだ。こんなのやるのはニートや社会の底辺だろう、という偏見が一瞬でうちやぶられた。緻密な戦略、相手の作戦の読破、外交交渉、自己の欲との戦い―ー聡明でバランスがとれた作戦ができる人がうじゃうじゃいる。こんな人が総理大臣になれば!としばしば感嘆する。(その一方で、超高学歴あるいは留学帰りと称するうちの職場の同僚たちはアルコール脳で、たとえば費用対効果とか技術的検討とかcitizenshipいうことの意味もわからないほど、めちゃくちゃにおバカだ。)そういえばご近所にもときどきすごい人って、いるじゃないか。八百屋のおかみさんの計算力と記憶力と人徳に頭があがらなかったり。うん。こういう人たちが社会の底のところを支えているからこそ、世の中の健全さが保たれているんだなあ。こういうおかみさんやゲーマーは政治家になっちゃいけないんだろうな。
とくにそう、日本の政治家の資格はなによりも「人に嫉妬されないこと」だもんね。無能でも貪欲でも下品でもかまわない。とにかく利口であってはいけない。小学生の漢字が読めないくらいがちょうどご愛嬌で、ぴったりなのだ。