ergo sum

健康ブログであるような、ないような

はてなダイアリーからの引越しにつきリニューアル模索中。

引き続きどうぞよろしくお願いします。

 団地再訪

先日の名古屋出張の間に時間をみつけて、昔住んでいた団地を訪ねてみた。そう、子どもの頃はこのへんに住んでいたおかげで、私の味覚は完全に名古屋系なのだ(なんにでもソースをかける、エビふりゃーが大好き、味覚はとにかくジャンク系)。
転勤族だったため、そこに親戚が住んでいるわけでもないし、昔を懐かしむ趣味もないので、一度もその団地に帰ったことはなかった。まさに35年ぶりだ。そのわりには本当に変わっていなかったことを、静かな驚きとともに実感した。団地の建物も、道路の配置も、通った幼稚園も、公園も、公園のベンチも、よじ登った木も、飛び乗って遊んだ手すりも、そのままだ。宝物が残っていた。
子どもの背丈から見ると巨大だった鐘塔も、大人になって見ると凡庸なただの建物でしかなくて、なんとなく悲しくなる――プルーストがたしかそんな実感を書いていたっけ。でもいいのだ。建物に意味があるのでなくて、子どものときの主観にこそ意味があるのだから。その主観だけは、何者によっても壊されることはないのだから。
私の住んでいた3号棟は普通の住居なのに、隣接する1号棟と2号棟はずっと「怖い」存在だった。そこからお化けが出てきて私をおいかける夢や、探検途中に迷子になった夢を毎日のように見た。そしてその理由が、今初めてわかった。3号棟は廊下側は窓なので明るいのだが、1、2号棟は両側住居で明かり取りの窓がなく、しかも廊下の照明もほとんどなくて真っ暗なのだ。なんだ、そういうことか、と素直に納得できる。べつに自分の感受性が異常すぎたわけでもなくて、子どもとしてはあたりまえのことだったのだなあ(毎日怖い夢を見る自分が異常なんだと、思っていた)。
薄らぐ記憶のなかにしかないと思っていた子ども時代の「世界」が、ひっそりとそこに存在していてくれた。その平凡さと小ささときらめきをそのままに残して。ああ、その間私はなんと変わったことだろう。あるいは、なんと変わらなかったことだろう。性格や本質はあまり変わっていないような気がする。それでいて、子どもは成長し、大人になり、無理やりに社会に組み込まれ、良き社会人、良き家庭人を演じさせられ、健康を壊し、また回復し、この先どこに行き着くのかわからないままに極めて多忙な日常のレールに流されている。それはあの、子どものころのゆったりした心からみれば、本当に、乱暴で、無理やりで、虚飾にまみれた、スピードの世界だ。その「乱暴さ」が、その「不自然さ」が、今となってはとてもよくわかる。そんな不自然さは、絶対によくない。体にも、心にも、よくない。少なくとも今、ようやくそういうことがわかってきた。