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 ほんとは怖い『風の又三郎』

子どもの付き合いで、何十年ぶりだろう、宮沢賢治を読んだ。そして気づいた。私はこの作者がすごく嫌いだ。
宮沢というのは、「雨ニモマケズ」のような根性・努力・友情などを手放しで賞賛できる無神経さ(普通は恥ずかしくてできんわ、対抗できるのは太宰くらい)、そして、岩手の山奥の「自然」に身を置いた脱世俗性という、ものすごく日本人好みの要素をもっているので、日本最高の童話作家と見なされている。
だが、そうだろうか。音読してみて思ったのだが、自分勝手な言い回しへのこだわり、リズム感を無視した凝った文体…それ自体が彼を物語っている。そして、実は全ての物語が「階級格差」や「異質なものの排除」をテーマとしているんじゃないか、と強く感じた。『注文の多い料理店』はなるほど化け猫に食われるところは面白いが、あれは田舎者が田舎者と思われないために虚栄をはったために喰われただけである。客がもし一人だったら逃げ出したろうに、相手への見栄や馴れ合いでどんどん理性を失っていく物語でもある。
風の又三郎』は、異質な「転校生」に対して子どもたちの冷たく鋭い視線が刺さり続ける。たしかに子どもは異質な物に対してすごく敏感だが、そういう直感的な冷酷さを、「感性」の名のもとに、あたかも大人にまで推奨するような方向性が、ある。そして『又三郎』にせよ『銀河鉄道』にせよ、男どうしのわけのわからない「友情」や「馴れ合い」に宗教的かつ神秘的な価値を付与しようとする作者の姿は、それって、ひとことでいえば、ホモ・ソーシャルな男の連帯の手放しの賞賛じゃないか。たとえば『又三郎』では、「一郎と嘉助が・・・し、○太郎が・・・し、○二郎が・・・し」とえんえんと続いて、最後に、「そして女子も集まった」と一言付け加えられる。女は最初っから、相手にされてない。男どうしの、馴れ合いや、異質な者の排除、というじつにつまらない動きを、あたかも至高の世界であるかのように書いている。銀河とか、宇宙とかいう言葉に騙されちゃいけない。スケールはすごく小さい。男同士で勝手にカゴメカゴメしてる物語を、なんであたしらは褒め称えなくちゃいけないんだろう。
うーん。最近職場でいじめにあってるせいだろうか。「又三郎」(本名は違うが、子どもたちが勝手に彼にあだなをつける。それも今的にはいじめだ)の孤独がすごくよくわかる。読んでいて腹が立ってくる。
そうそう、私の身の回りには「宮沢賢治・命」ってゆう男の知人がたくさんいるのだが、彼らはことごとく自己愛的で、煮ても焼いても食えない。たとえば店で別の客がカラオケしてると「下手くそ、帰れえ!」ということをなんの躊躇もなく叫べだりする。てか、現実の社会でやっていけなかった自己愛男の妄想が、宮沢文学じゃないか。こんなもの子どもに読ませないでほしい。