ergo sum

健康ブログであるような、ないような

はてなダイアリーからの引越しにつきリニューアル模索中。

引き続きどうぞよろしくお願いします。

 痛みの閾値

苦痛が耐えきれなくなる閾値には個人差があるだけではなく、その個人がどのようなバックグラウンドを有しているかによっても異なる。(レイ『痛みの歴史』)

どのくらい痛いと感じ、どのくらい耐えがたいと判断するかは、「個人差」で片付けられがちだが、その人間の文化や環境にもよる。昔イギリスのテレビで、こんな実験をやっていた。氷水に何秒間手をつけていられるかを測定する。すると、親の時間が短いと子の時間も短い。親が辛抱強いと子も辛抱強い。つまり子どもの忍耐力は、親の日常的な振る舞いに影響される。そしてそういう振る舞いが、勉強をがんばるかがんばらないかといった学力に影響する、という教育番組だった。
学力問題はおいといて、たとえば聖セバスチャンのように宗教的な恍惚感を感じていれば矢に指されても痛くないだろうし、「男になるぞ」っていう通過儀礼として絶対的に必要だという認識があればガラスの上をはだしで歩いても痛くないのだろう。すべて脳内の反応の仕組みによるのだから。どういう行為がどのくらい痛い、などといったことはけっして数値化、一般化されえない。
そんなことを、今日病院で怪我した小指の抜糸をしてもらいながら、考えた。本来は1週間くらいで抜糸の予定が、パソコンを打ったせいだろうか、縫ったところから出血してかさぶたができてしまい、延期することとなった。今日とて、かさぶたのなかにすっかり埋もれた糸をほじくりだしながらの抜歯だったから、痛かったし、また血が、出た。「気の持ち方次第で、痛くないんだ。私はマゾで、こういうのが快感なのだ!」と必死に自分に言い聞かせたが、やっぱり痛いものは痛かった。『痛みの歴史』を読んだからって、痛くなくなるわけではない、と。ふう。
ところで、自分のバックグラウンドばかりでなく、相手との「権力関係」も痛さに影響するのではないだろうか。「自分のかさぶたを他人にはがされる」という同じ行為でも、たぶん、デラックスな病院の有名医師にやってもらうとあまり痛くない。大嫌いな同僚や大嫌いな姑などにやられたら、わめきたくなるぐらい、すごく痛い。実際の腕前が同じだとしても、だ。