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 「女の幸福」と西原理恵子

私が高校生くらいのときだったろうか。その頃というのは、自分が社会的にどういう位置にあるか、人より上か下か、ということが妙に気になる世代だった。両親は健在である、ゆとりもある、自分はまあまあ普通の顔立ちである、学校の成績も良い、先週は県で一番高級なレストランに行ってイタリア料理をコースで食べたほどだ…などなど自分が幸福である根拠を列挙してみる。うん、自分はなかなか恵まれた、幸福な立場なのではないか、と思ってみたりする。だが同時に、なんか虚しい。今となっては、その虚しさは説明できる。「幸福」というのは条件とか肩書きではなくて、自分が感じることである、と。だが当時は、いくら国語の試験で、「財産や地位が幸福ではない、精神の豊かさこそが大事である」などといった建前をマスターしきっていても、それを自分自身の「感じ方」に結び付けて実際に考えることは、一度たりとも、なかった。あるいは、「すばらしいのは友情や無私的な犠牲や博愛精神である」という日本独特の「自分より先に他者を重んじる」道徳をあまりに叩き込まれたせいかもしれない。自分の感覚など二の次だった。
なぜこんなことを思い出したかというと、西原理恵子の『毎日かあさん』がテレビ化されるからだ。サイバラは昔から大好きな漫画家で、『裏ミシュラン』のあたりからずっと読んでいた。「子どもは天使」といった建前に毒されず、ありのままに本音を書き散らす、その姿勢は貴重であり、潔い。ところが、だ。「女の幸せ」というテーマに関してだけは、彼女はおそろしく保守的で、頑迷だ。
あるとき深夜にゴミ出しに行って、よその中年女から文句を言われる。その女はイモジャージを着ていて、ブスでデブで下品で乱暴である。容貌や年収からすると、自分が「勝っている」と思う。ところが翌日、その女には実はちゃんと夫や子どもがいて、「女の幸せ」としては自分が負けていたことに愕然とする。そういう逸話が昔の作品にあった。そういう文脈で今の『毎日かあさん』をとらえると、いまや「結婚」し、「二人も子ども」をもうけ、しかも自宅を所有しているサイバラは、ついにそのイモジャー女に勝ったのであり、この世で最高に幸福な女である・・・そういう、勝利宣言のようなものが、行間からあふれ出ている。そこのところが、ものすごくバカらしいし、イヤだと思う。世の中のビミョーな矛盾に気づく鋭さがあるんだったら、「女の幸せ」なるものの虚偽性にも気づいてしかるべきだが、むしろそこのところで人と争い、金儲けすることに生きがいを見出してしまったところが、彼女の愚かさだと思う。フェミ的な教養がみごとに「ゼロ」。
しかも、そういう愚かさを、マスメディアは賞賛し、待ちに待った(時代錯誤的な)良妻賢母の登場だ、とはやしたてる。どこが良妻賢母だ、夫がアル中とわかったとたんに突然離婚し、追い出しておきながら、夫が死んだ途端にそれを美化して漫画のネタにする。男が好む割烹着を着て、自分のトレードマークとし、たとえばあの石原都知事と対談して「割烹着姿のふくよかな女の人好きだなあ」なんて言わせたりする。
ともあれ、「女」は「結婚」していて、「子育て」するのが一番「幸せ」だという、時代錯誤的な料簡を新聞で撒き散らして、金儲けのネタにするのはやめてくれないか、サイバラ。もうすぐあんたを嫌いになるよ。テレビ化だって、「子育てのために金がいる」ことを金科玉条にしてるようだが、私たちが好きなのは、あんたの下手できたない絵や字なんであって、大衆向けに加工されたこぎれいなアニメなんか見たくないんだよ。わからないかなあ。
でもあんたは、自分さえ儲かるなら、なんのためらいもなく、テレビに出まくり、参議院選に立候補し、はては少子化担当大臣にまでなっちゃうだろうなあ。でも、自分が人に利用されてるってことには、せめて気づいてほしいなあ。