ergo sum

健康ブログであるような、ないような

はてなダイアリーからの引越しにつきリニューアル模索中。

引き続きどうぞよろしくお願いします。

 普遍というレトリック

ウォーラーステインの『ヨーロッパ的普遍主義』より。著者が言う普遍主義とは、特定の概念を「普遍的」なものだと決めつけることによって、世界のシステムが裡にはらむ構造的暴力を隠蔽するものとして機能するレトリックのことだ。これって、私が元旦のページに書いた、弱者を強者に都合のよい方向に向かわせる印象操作のことだな、とピンときた。著者によると、これはだいたいこんな流れだ。

  • キリスト教の「普遍」    (中世〜)
  • 資本主義的物質文明の恩恵  (19世紀〜)
  • 人権と民主主義       (戦後)
  • リベラリズム         (ポストモダン以降 1970〜) 

たとえば「普遍化」された「人権と民主主義」は、世界システムが行使する暴力を正当化するのに、欠くことのできない概念になっている。だから支配者たちは、これを大切にする。9・11の仕返しでしかないアフガン攻撃(子どものけんか)を、アメリカが「人道主義」の名のもとに正当化したり、賛美したりする。あるいは、「誰にも干渉されないわ。政治なんてくそくらえだわ」というリベラリズム、言い換えれば「私らしく生きる」路線を絶対的なものにすることで、マスメディアだけが情報源になってしまい、結局みんなが同じく「美」や消費の路線に突入してしまう。そして経済的、社会的な地位を自らどんどん低めていくのて、得をするのは男であり、権力者である、という皮肉なことになってしまう。
しかもこうした普遍主義は、白人たちの局所的な病気であるにとどまらず、世界中に感染してしまった。そして、私は思うのだが、大衆社会的な先進国では、「健康」と「美」も普遍化されている。そういう「普遍的な概念」に、私たちは日々脅迫され、傷つけられている。
ヨーロッパ的普遍主義