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 「大きなものを守る」という言い訳

NHKのお昼のニュースを見ていた。北朝鮮がついにミサイルを発射した!しかし数分後に「これは誤った情報でした」と訂正報道が。なんなんだマスコミは。こんな誤報が出るのは、「ミサイルが発射されてほしい」という無意識の期待があるからにほかならない。
もちろん個人的にあの国はあまり好きではないし、他国に迷惑をかけていると思う。だが、今回はミサイルの件が必要以上に日本で取り上げられ、政治的に利用されていると思う。これを利用して自衛隊や軍備増強を行う絶好の機会だからだ。というのも、このところTVに映る麻生総理やその他の閣僚は、じつに生き生きとしている。ほらね、国を守れるのは私たちだけなんですよ。私たちはあんたたちの安全を、外国の脅威から守ってあげているのですよ。だから次の総選挙では絶対に票を入れなさい。そういうことだ。これで、中川泥酔事件やいろいろな不正が帳消しになる。ちょうど、検察とつるんでホリエモンバッシングの主導権を握ることで、多くの土建屋がからんだ耐震高度偽造事件をうまくごまかしたように。あきらかにそういう政治的な意図で、一連の報道がコントロールされている。(少なくとも、ミサイルが落ちるかもしれない秋田の農民たちを心から思いやっての「迎撃」ではない。示威行為だ。)
政府だけではない。権力者が自分の不正や、弱者への迫害を正当化するときに必ず使うのが、そういう「大きなものを守っている」という言い訳だ。市民病院の存続を「公約」にして当選した銚子市長が、あっさりと病院の廃止を決めたときの言い訳も、「市の財政という大きなものを守るため」だった。「大きなもの」とやらのためには、病院の一つくらいなくなっても、それでじいさんばあさんが何十人も亡くなっても、平気なようだ。そういう感覚。で、世の中のいろいろな価値を、「大きなもの」と「小さなもの」に振り分けているのは、もちろん権力のある人たちだ。
俺たちは大きなもの、普遍的な価値を守ってやっているんだ、俺たちは全然悪くないんだ・・・こういう権力者たちの、ヒロイズム、連帯感、驕りは、手のつけようがなく、ほんとうに腹立たしい。彼らの作り出す「大きなもの」を共有できるかどうかで、その人の社会性や社会的成功の可能性が、決まってしまう。これが全体主義に向かうってことだと思う。吉本隆明の言葉を借りると、共同体幻想が根付きやすい社会だと思う、日本は。