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 日本人の肌は何色か

表象としての「日本人の肌の色」についての研究は、これまでほとんどなかったそうだ。これ自体が西洋支配というタブーにふれるからだろう。そういえば、クレヨンの「肌色」は差別的だというので最近は使われなくなったなあ。
西洋人は、16世紀までは東洋人の肌の色を「白」と表現していた(マルコ・ポーロでも日本人の肌は「白」だ)。ところが17世紀から20世紀にかけて「黄色」という表現が普及してゆく。白人、黒人、黄色人種、という分割によって「白人」の侵略や植民地支配を正当化していくためだ。「白人」の肌もかならずしも白ではないが(むしろ赤や青)、白黒や善悪の二元論的思考にあてはめて、彼らの身体的・知的優位性を誇示する表象として「白」を機能させた。アジアやアフリカに進出した「ヨーロッパ人」をあえて「white白人」と表現することで、「ヨーロッパから流れ着いたよそ者」ではなく、その土地に対して所有権を主張できる優越した人種であることが正当化できた。
やがて黒白黄の三色の割り当てや「人種」概念を、日本そのものが19世紀頃から積極的に受け入れていく。これは、自分のみじめさを意識しないですむように、攻撃者に自分を同一視してしまう心理学的な機制が働いたせいだ、と著者は説明している。西洋式の人種分類を受け入れ、自分たちは白に近い黄色であると認識すれば、自分も西洋の一部で、少なくとも黒よりは上であると認識できるからだ。明治〜大正期の日本文学は女性の白肌を異常に賛美し、「西洋人のようで美しい」とコメントし続けた(『痴人の愛』のナオミはバタくさいがゆえに「美しい」)。私見だが、その結果がこんにちの日本人女性の「白肌信仰」だろう。UVホワイトなんたらという化粧品を使わない女性はない。
最近は西洋人も「黄色」に描かれており(シンプソンズスポンジボブなど)、それはロック音楽の流行などを通して従来の人種感覚が改善されてきたせいだ、と語られている。だがこの点については、どうかな、と思う。色は黄色でも異常に「鼻」が高かったりするので、やはりことさらに差異化しようとする表象がなくなったわけではない、と思うのだ。
ともあれ本書は、世界史の裏にあって、実は世界史そのものを動かしてきた、差別や支配の問題を軽快に例示しているので、興味がある人には面白く読める。また、こんな本が書けるのも、著者がスウェーデン在住の研究者だからであって、日本の大学などにいたら絶対につぶされていただろう。
黄色に描かれる西洋人―思想史としての西洋の人種主義