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 ノーベル賞報道とみっともない西洋崇拝

ノーベル賞の授賞式が報道されていた。受賞者がどれだけユニークな研究をしたか、どれだけ面白い人柄か、といったことを報道すべきなのに、「何語で話すか」とか「夫人の着物がどう」とか「海外旅行は初めて」とか「踊るか踊らないか」とか、ピントのずれた所ばかりが報道されていておかしいと思った。
言葉については、ストックホルム大学のスピーチにおいては、恒例にさからって益川氏が日本語で話したことばかりがとりあげられた。各社の見出しはすべて「異例の日本語講演」。ご本人としては、「あえて日本語で論文を書いて、それを読むためにいつか世界中の人に日本語を勉強させてやる」と若き日におっしゃっていたそうだから、日本語スピーチは彼の信念でもあっただろう。自分が思考した、その言語で書き、語る。言葉を変えるのではなくて、世界が変わればよい、という大きな理想。しかしマスコミの視線は違う。せっかくの晴れ舞台なのだから、格好良く英語でスピーチをしてほしい。学者なんだから、英語くらい話せるだろう。それをしない益川氏はちょっと恥ずかしい。理科系の研究バカだから仕方がないのか。その点で、英語が話せる自分たち(アナウンサー)の方が上だ・・・そういう視線であったように思う。ようするに、それ自体がみっともない英語崇拝。
それでいて、授賞式の場面でスウェーデン国王が「日本語で」彼らに挨拶する場面は大々的にとりあげられる。「西洋の」「王様」がわざわざ日本語を話して「くださる」ことはたいへん名誉だ、と。日本は世界中で敬われる立派な国なんだ、と。国王は、受賞者個人に対する敬意から日本語を話しただけなのに、日本国家そのものに対する名誉だ、というようにありがたくうけとってしまう。益川氏のI cannot speak Englishの発音が悪いことは取り上げられても、国王の付け焼刃の日本語が、かなり下手だったことについては誰もコメントしない。
つまり、単純な英語帝国主義でも、民族主義でもなく、ようするに、明々白々な西洋崇拝。これらの報道こそが、いかに日本が西洋に対して歪んだ憧れをもち、いかに歪んだかたちで西洋と自分を同一視しているかをよく示している。それゆえに、見ていてげんなりした。
きわめつきは、授賞式後のダンスパーティー。湯川夫妻を除いて、これまで日本人受賞者は誰一人として「踊らなかった」ことがさも残念そうに報道される。そんな趣味や習慣がなければ、踊らないのはあたりまえなのに、西洋風の社交になじめない受賞者夫妻たちを軽蔑の目でみるマスコミ。昔の湯川夫妻が踊っている古い新聞写真が画面いっぱいに映る。にこにこして(にやにやして?)二人をじいっと眺めている白人がいっしょに映っている。「湯川夫妻の踊りが上手だったから見てるんでしょうかねえ」「いや、すごく下手だったからでは?」そんな会話をアナウンサーたちが交わす。ここでもまた、「西洋人にどう見られるか」だけで自分たちの価値を決めてしまい、西洋人の視線を内面化しようとする、醜い日本人の姿があった。ちなみに、スウェーデン在住の北原惇氏なんかは、このノーベル賞狂想曲をどうごらんになったのだろうか。なんとなく気になる。

***毎日jpより
ノーベル賞:益川さん、異例の日本語で記念講演

ノーベル賞受賞の記念講演をする益川敏英さん=スウェーデンストックホルムストックホルム大学で2008年12月8日午前10時42分、北村隆夫撮影 【ストックホルム河内敏康】ノーベル物理学賞を受ける益川敏英京都産業大教授(68)らが8日、スウェーデンストックホルム大で、授賞式前の公式行事である記念講演を行った。

 益川氏は冒頭「私は英語は話せません」と英語で断り、聴衆を和ませた。講演は異例の日本語で行われ、英語の字幕が会場に映し出された。「学校の宿題をほとんどしなかった」など少年時代を紹介して笑いを誘い、受賞理由となった素粒子クォークの数の見直しが浮かんだ場所が自宅風呂場だったエピソードを紹介した。

 小学校入学前の第二次世界大戦での体験にも触れ、「悲惨で無謀ですべてを無に帰すものだ」と平和の大切さを訴えた。