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 ナイチンゲールのせいで…

偉人伝に登場する女性のほとんどは、名家の出身で金持ちの白人女性で、精神的にも名誉男性だ、ということを斉藤美奈子さんが『紅一点論』で書いており、その代表としてナイチンゲールが挙げられていた。
エーレンライク&イングリシュ『魔女・産婆・看護婦 女性医療家の歴史』はもっと踏み込んでこの問題を明かしている。医療には、医学的治療と精神ケアを含めた看護の二側面が不可欠であり、中世までの医療家はその両面を担ってきた。しかしながら近代以降、医療は男に、看護は女にという役割分担が推進された。経済的にも社会的にも有利な医者という特権を男が独占することが目的だった。そのために「(女の仕事として)看護婦はすばらしい」というキャンペーンが行われ、女性の関心を誘導したのである。
「女は生まれつき人の世話をすることに向いている」という言説が語られ始めたのも19世紀以降で、これによって女たちは出産・育児・従属的なサービス業、一言で要約するならば「権力や財力にかかわらない立場、搾取される立場」に追いやられていった。看護婦としてナイチンゲールが絶賛され、表彰され続けたのはこういう文脈でとらえなければならない。
彼女にまつわる言説を見ていくと、「生まれつき向いているから」という本質論ばかりで誘導が行われているわけではないことがわかる。むしろ、看護婦になることでより上位の階級に属することができる、という階級上昇の夢想をかきたてていることに注意しないといけない。その意味でナイチンゲールがきわめて上流の出身であったことは好都合であった。否、上流だからこそ賞賛されたのだ、といえる。「お金儲けのためではなくて、人の役に立っているという満足感のために労力を提供するのよ」、こういう上流階級の有閑マダムの価値観を一般女性にも浸透させることで、低賃金の過酷な職業の担い手を確保していったのである。戦争の大規模化に伴い看護婦の需要も急増していた。

ナイチンゲールと彼女の直接の弟子たちは、その階級的嗜好という消しがたい性格を看護婦たちに与えた。訓練では技術ではなく人柄が強調された。ナインチンゲール看護婦は、完成された製品であり、家庭から病院に移植され、繁殖の責任が免除された、単なる理想的淑女であった。医師には絶対的服従という妻の務めを捧げ、患者には母の無私の検診を捧げた。(p.53)

物腰はやわらかいのだけれど、選民思想をもっていて妙にいばっている看護婦は今も少なくない。日本の看護婦はいまだにウルトラフェミニンなジェンダーをもつ場合が多いせいだと思う。そういう看護婦はたいへん付き合いにくい。出産で入院したときも、母乳と布オムツ(!)は「あなたの義務です」とわめきたてた看護師がいたっけ。そういう看護師から見れば、同じ女でも、若輩の妊婦や乳がん患者などといった弱者はあきらかに「下」の階級に属するのだろう。というわけで、もし看護師を目指している女の子がいたら、私は絶対医者になることを勧めようと思っている。お金さえあればそれほど偏差値が高くなくてもなれるのが現状。「自分は頭が悪いから医者なんかなれない」という女子の思い込みこそが、馬鹿な男の医者を量産しているのではないか?

看護婦が理想的女性とすれば、医師は知性と行動と抽象的理論と滅多に動じない実用主義をを統合した、理想的男性であった。女性の看護婦への適性が、医師への道を閉ざすことになった。逆も同様だった。女性の優しさや生来の超俗性は過酷で直線的な科学の世界に合わず、男性の決断力と好奇心は長時間患者の面倒を見るのに向かないというのだった。(p.59)

魔女・産婆・看護婦―女性医療家の歴史 (りぶらりあ選書)