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柳原和子『百万回の永訣 がん再発日記』

帯には「どんなに絶望しても」「散文詩かと思える緊張の高い文章」。そう、俳句などが散りばめられた美しい文章で、卵巣がんの再々発、しかも医療過誤の著書などを出した社会派の著者だというのだから、期待して買った。重かったけれどタイトルがかっこよかったし。
役に立つ情報が多かったとか、再発にともなう死の恐怖がよく表現されていた、なんていうありきたりのことは省略する。ここはあえて辛口の感想文を書こうと思うので、好まない人は以下を読まないでほしい。
本書が大手書店で平積みになり、「各誌で絶賛」されたのはなぜだろう。以下の理由だと思う。一、著者が末期のがん患者であること(大衆の同情)。一、患者の立場から医療を批判的に見る視点をもつこと(大衆の共感)。一、代替療法推進の(患者側の)第一人者であること(大衆の共感)。
たしかに文章はたいへんうまいし、日記として読めば何の問題もない。だががん患者としての私には、この本は役に立たない。彼女は『患者学』等の出版でたまたま全国の名医と面識があったために、がん再発時には特別待遇で超一流の医者たちに相談・治療を受けることができた。初発時の京大病院も不満足で転院し、あの近藤誠が「友人」としてちょい役で出るくらいだから、その水準の高さは推して知れよう。手術時には3つの異なる病院の最高の医師たちをコラボレートさせている。いつも個室で特別室。インフォームド・コンセントやセカンド・オピニオンは結構だが、私にはとても手が届かない世界だ。
彼女は医療過誤についての著者であり、代替医療の旗手であり、日本で最も有名な患者なのだ。私が医者だったら治療はお断りしたかもしれない(聖L病院は実際に断ったそうだ)。
あえて偏見めいたことを書くが、彼女の出身校T女子大の女性は「伴侶」探しに敏感な人が多い。東大出身者に拘るばかりでなく、その中でも将来性の高そうな男を察知するに本能的な感を発揮し、それに全精力を傾ける。もちろん柳原さんがたくさん医学の勉強をしたり病院を歩き回った努力は評価するが、基本的に彼女の行脚は伴侶探しと同質の「名医探し」だったと思う。だから読み終わったとき、すごく疲労感を感じたのだ。医者/男は「力」と「手段」をもつもの、私の全てがかかっているもの、だからこそ是が非でもゲットしなくてはならないという強迫観念に本書はつきまとわれているからだ。「ドクターショッピングはやめろ」と周囲から揶揄されるほどに。
医療批判をする人に限って医者を神聖視する人が多いことに、はた、と気づく。そうしてたまたま自分が最後に満足のいく医者を見つけられたからといって、「医者を信頼しよう」で本を締めくくるのはどうなんだろうか。「男なんてダメよ」といいながらも、良縁を得た途端「男はいいわよぉ」と女友達に吹聴した某友人の姿と重なってしまう。末尾の方で、実は医者も患者を選ぶのだということに気づいてはっとする、という記述があるが、そうした気づきは遅すぎやしないか。本来医者と患者は対等である、というころからスタートすべきではないか。そしてまた著者自身も、社会派や患者代表を気取るなら、自分の特権を当然のことのように誇っていてはいけないのではないだろうか。また自然療法派にとっては唾棄すべき抗がん剤で転移層が消えたことをどう説明するのか。
そのようなわけで、「凝縮された美しい文章」とは裏腹にたっぷりと「俗っぽさ」を感じた。あまりメッセージもない。本人は言っている、できれば「愛」について本を書きたかったと。それが叶わなかったから、体を張って医療と立ち向かい、それを小説化した。恋愛の代替行為としての医療って…幸せなのか、不幸なのか、よくわからない。医者マニアといってしまえばそれまでなのだが。
ある手術が結果的に失敗だとわかったとき、著者はそれを手術を勧めた「姉」のせいにする。医者のことも自分のことも責められない彼女は、そこまでして「素敵なお医者さんごっこ」の夢に浸りたかったのだな、と思った。
百万回の永訣―がん再発日記