ergo sum

健康ブログであるような、ないような

はてなダイアリーからの引越しにつきリニューアル模索中。

引き続きどうぞよろしくお願いします。

 ヴィラ癌

 

 

 

同じ仕様の建て売りが、視野の限り続く。右肩上がりの屋根、二階には出窓とベランダ〔…〕。ニュータウンの影のない真昼に、ジャージの通行人が、一軒のチャイムを鳴らした。エプロンで手をぬぐいながら出てきた主婦に、彼は囁く。
「私の耳は 貝の殻 海の響きを懐かしむ」
主婦はエプロンを外して隣へ赴き、チャイムを鳴らす。出てきた隣の主婦の耳元で囁く。
「ワタシノミミハ カイノカラ ウミノヒビキヲ ナツカシム」
その主婦がまた隣のチャイムを鳴らす。
「ワタシ ノミミ ハカイ ノカラ ウミノ ヒビ キヲ ナツカシヌ」
そのまた隣のチャイムが鳴った。
「綿死 野耳 破壊 野殻 膿の 罅 忌を 夏か死ぬ」
チャイムの津波がじわじわとニュータウンを呑み込んでいく。破壊、野殻、膿の、罅。罅が壁という壁に走り、一軒の屋根が延び、もう一軒は縮み〔…〕屋根がめくれ、天に向かって螺旋を描き、壁が身をよじり、瘤が生え、はりつめた瘤が弾け、ベージュやグレーの新建材に、ぬめりを帯びた赤が広がっていく。肉の質感が、互いに寄り添い、呑み込み、吐き出し、芽をふき、伸びては絡まり、ふるふると振動を繰り返す。かくして一個の固体が現出した。「グランドハイム遺伝子」は「ヴィラ癌」になった。(『蟹と彼と私』より)
 

 何のことかわかっただろうか。遺伝子の伝言ゲームとがんの発生だ。
この作家のダジャレはあまり好きではなかったのだけれど、こういうところは好きだ。
60億個の没個性的な建売住宅が人間の健康を支えている。
だけどその一個一個の住宅の中も、実は少しずつ壊れたり狂ったり老朽化したりしていて、だからチャイムに出た主婦も耳が悪かったり、思い込みが激しかったりするのだ。
(ただし「ミミハ」の部分は「ミミワ」と読んでいるはずなので、「ハカイ」に繋げるのは少し無理があるのではと思った・・・)
この小説はパートナーが食道がんにかかって亡くなるまでを描いている。
一気に読み終えてしまった。
この後、ご両親の介護で苦労するとともに、作家自身が大腸がんに罹患されたようだ。
時間があったら、そちらの小説も読んでみたいと思っている。


・・・このかん、12月締切りと1月締切りと2月締切りの大仕事があって、それぞれぎりぎり間に合わせたのだけれども、そろそろ疲れてしまって、3月締切りの仕事が手付かずだ。そしたら逃避したいあまりに、ついつい上記の小説に読みふけってしまった。

それと、リニューアルついでにブログトップにはめ込んだ桜の画像が華やかすぎて、どうも落ち着かない。
10年間同じだったくすんだ緑色のデザインの方が性に合っている。
でも画像を直すだけの余裕と元気がないので放置している。
時間ができたら対応したい。
(いや、時間というのは「できる」ものではなくて、「作る」ものだ、それはわかっているのだが)
こういう不具合や、小さなイライラがどんどん自分を蝕むのだということもわかっているのだが、どうにもならない。
ああ。
休みが欲しい。

 

ブログリニューアルにつきまして~どれが消火栓なのか問題など~

はてなダイアリーが2月末になくなるため、突然はてなブログへの移行を余儀なくされました。昨日慌てて対応したのですが、細かい設定などがまだまだです。
思えばブログ解説が12年前、そのかんデザインも全く変えず、細々とやってきましたが、長きに渡ってご訪問くださり、コメントをしてくださった皆様には深く感謝申し上げます。幸いこれまでのコメントもすべて引越しできましたので、有難く思っています。このブログに価値があるとするならば、頂戴したコメント部分ですから!
新ブログでは認証にお手数をおかけしているようで、申し訳ありません。はてなのサービスにログインしているユーザーならば認証不要で書き込めるようなのですが(別にブログを書く必要はなさそうです)、それ以外はあの変な写真の画像認証を経なければいけないようです。

ゲストユーザーがコメントを投稿する際に表示される画像認証を変更しました - はてなブログ開発ブログ


私自身もこの認証がすっごく苦手で、さっそく「消火栓を全て選べ」と言われても、選びきれずに投稿できなかったりしました。消火栓の端っこだけの升目は選ぶべきなのか否か?と悩んだり、視力が低いので「トラック」なのか「バス」なのか見分けられなかったり。「道路標識」に至っては、支える棒は入るのか、道案内の看板はどこまで入るのか、この英語はなんじゃいな、と悩みに悩んで何度もログイン拒否されています(涙)。
少しずつ使いやすい設定にしたいと思いますが、落ち着くまではご不自由をおかけして恐縮ですがどうぞよろしくお願いいたします。
気分を変えて桜の画像を入れてみましたが、ちょっと華やかすぎ?これまでのダークグリーンの暗さと地味具合に慣れているので、まだ違和感があります。しかも文字が大きくなってしまっている?早く設定して、ゲットーブログにしたいのですが・・・

 ヒュパニス河の動物

モンテーニュより、死について

一度きりのものは、何事も苦しくはありえない。こんなに束の間のことをこんなに長い間恐れるのは道理であろうか。長く生きることも短く生きることも死んでしまえばまったく同じことだ。なぜなら、長いとか短いとかいうことは、もはや存在しないものにはないからである。
アリストテレスによると、ヒュパニス河にはたった一日しか生きない小さな動物がいるそうだ。その中で、朝の八時に死ぬものは若くして死ぬのであり、夕方の五時に死ぬものは老衰で死ぬのである。こんな束の間のことを仕合せだの、不仕合わせだのと考えるのを見て、われわれのうちに笑わない者があるだろうか。(1巻10章)

たまたま開いたページにこんな文があった。
そういえば『サピエンス全史』のハラリさんも言っていたが、人間の最大の特徴はフィクションを信じることにあるそうだ。
古代の人が太陽を神格化したり、ライオンを守護神にしたり。
あるいは「死」を概念化して恐れたり、ことさらにそれを避けようとしたり。
でも動物にはそういう発想がない。
どちらがより幸せなのだろうか。


少なくとも私は、フィクションを勝手に作り出して、勝手に自分を不幸にしているような気がする。
少し動物のように生きたいなあ。
ところでヒュパニス河の動物ってなんだろう。ちょっと気になる。
クリオネみたいな、小さくて儚くてきれいな生き物か。
哺乳類だとすると、寿命一日は短かすぎるなあ・・・
でも本人は「短い」とは感じないのか。そうか。

 新春のご挨拶と「フレディーの脚」

新年おめでとうございます。

昨年度は超気まぐれ更新になってしまい申し訳ありませんでした。それでもなお訪れてくださった方々には、心からお礼を申し上げます。
皆さまが助けてくださることに甘えてはいけない、と思いつつ、その叡智にいつも支えられ、なんとか生きています。
皆さまもどうぞ、穏やかで充実した一年を過ごされますように。
昨年はご不幸のあった方も、悲しみが浄化され、今年は落ち着いて前に進まれますように。


年末はNHKで放映していたガブリエル・マルセルの「欲望の哲学史」に感銘を受けたので、いずれまとめたいなと思っています。

さて、いろいろとアップしたいと思っていたのにできずにいたことを、新春第一弾で実行したい。
それはフレディーの脚だ。
生き方とか音楽にも感銘を受けたのだが、妙にはまってしまったのが、フレディーの姿勢の美しさだ。
脚が長いというだけでなくて、まっすぐ伸びていて、その脚の上にしっかりと上半身が載っている。
脚の長さだけならばブライアン・メイも同じく長いのだが、フレディーの姿勢は別格だ。
両足を開いて片手を上げた、あの有名なポーズも、アラインメントが完璧で、手足が外へ向けて互いに引っ張り合う、見事な均衡を保っているから美しい。
脚の上に骨盤が完璧に載っているので余計な肉がつかず、お尻が引き締まっている。
だから細身のジーパンやレザーパンツを穿いても絵になる。
しかも股関節が柔軟なので、歌いながらスクワットみたいなポーズも軽々とできる。
勝手に想像するならば、彼の大好きな、マイクを股間に当てるポーズも、おそらくあそこに体の重心があることと関係するのだろう。
股間上というか、下丹田というか、ある種エロティックなものも含めて、すべてのエネルギーはそこから発するし、それを原動力に、人間は動くのが本来なのだろう。


私の体の正反対だったので、とても憧れた。
目や指先といった末端から動く歪んだ体を直すことで、精神も健全になるような気がする。
よし、フレディーの脚を今年の目標にしよう。


だが、フレディーは晩年HIVのために、あの脚を切断してしまう。
悲劇的なことだ。
映像で脚を見る度に悲しくなる。


ps.クイーンの筋金入りのファンの友人と話したら、あの映画は「ファミリー向け」に脚色されたからダメだとか、HIVの公開はライブエイドの後だとか、当初別の監督と別の俳優で企画されたとか、いろいろ文句を言われた。だが、クライマックスのライブに向かっていく、あの圧倒的な時間の流れこそ、本当にカタルティックで、すばらしい体験だった。心のなかの扉が開かれたことに感謝だ。

ロックな日

ボヘミアン・ラプソディ(オリジナル・サウンドトラック)


長らく更新できず、申し訳ありません。
せっかく来てくださった方々にはお詫びを申し上げます。
この名状しがたい怒涛の日々をどう表現すればいいのか。
ただの備忘録だけど、今日のことを書いておこう。


さて、いつものように仕事が詰まっていて、
12月上旬締め切りの大きなプロジェクトがあるというのに、
今日はたまたま早起きして、ふっとwebを見たら、
映画『ボヘミアン・ラプソディー』に気づく。
普段クラシックしか聴かないけれど、この曲は好きだった。
ものすごいパワーがある。
で、フレディーはバイで、『ワンピース』のイワ様のモデル。
いろんな偶然が重なって、これは見に行こうと決めた。
Dolby-Atmosの巨大スクリーンの部屋に入ると、
予告編の音声のあまりの大きさに頭痛がして辛かったが
本編が始まると、音量の渦に囲まれて気持ちいい。
もっともっと、と求めながらフレディーの伝記的映画を
見終わっていた。あっというまだった。
その刹那感は彼の人生の短さと重なる。
HIVで死を覚悟しながら1985年のライブエイドに挑む彼の姿は
圧巻で、小さな肉体を飛び出して、神となり、空気となり、
72000人の観客と一体化していく。


こういうことがあるんだなあ。
人間ってこういう力があるんだなあ。
こういうことをしたいなあ。


創造的でなければ生きる意味はない。
共同体でのロールプレイに甘んじた人生に意味はない。
これまでずっと、魂が震えるような経験を封印してきたけれど
(意図したわけではないけれどなぜかそうなってしまっていた)
体を開こうじゃないか。
これからなんだ。これから何かやろう。


そんな気持ちになってしばらく興奮していた。
ああ、ロックだ。
頭の中はずっとボヘミアン・ラプソディーが鳴っている。


またフレディ役のラミ・マレック君がいい。
フレディそのものになって、生ききっている。
インド系の出自とか、歯とか、性的思考とか、親との葛藤とか、孤独とか、猫とか、、、
すべてが彼を作るためにあり、
すべてが生かされている。
何一つとして無駄なものはない。
たとえそれで本人が苦しんだり、酒やドラッグに溺れたとしても
大宇宙から見ればどうでもいい。
ジム・ハットンとの関係が、とくに素敵だった。



sinkoさんはロック好きなかたなので、ぜひトラ君を連れて
これを見に行ってほしい。
あの子ならこの映画からいろんなものを感じ取るだろう。

 検診

猛暑と台風が交互に来る、過ごしにくい夏だったが、これからは秋に向かって落ち着いてくれるといいなあと思っている。
災害とか病気という日常の変化というのは、
 大変だと思えば大変
 平気だと思えば平気
――なんだと思う。
ただ、気をつけたいのは
 平気だと思っているけど無意識では大変だと思っている場合。
普通に生活しているはずなのに、なぜか注意力散漫になったり、落ち着かなかったり、眠れなかったりする。
ゆっくり瞑想や深呼吸をして、自分の無意識をケアしたい。


病院の定期健診のご報告だ。結論から言うと、何もなくて、ホッ。


まず、私立のクリニックで乳腺の定期検診。
乳腺も毎年検診するつもりが、実は昨年は忙しくて行きそびれてしまった。
2年ぶりの検診なのでドキドキしたが、問題なしだった。
それにしても、かかりつけの市民病院のマンモは死ぬほど痛いのに、このクリニックは全然痛くない。機種による違いなのか、検査係のお姉さんのポリシー(=サド度)によるのか、謎だ。


先週は呼吸器の定期健診だった。
前回では「わずかなリンパ肥大」などと書かれたのですごく心配だったが、何もなし、だった。すい臓にあった謎の影も、今回は消えていた。ほんとによかった。
前回は昨年の主治医が突然辞めたために臨時のレジデント君が担当で、たいした話ができなかった。今回の新しい主治医は30台くらいだが、いかにも世慣れた、器用そうな医者だった。彼なら話し易そうだと思ったので、聞いてみた。
「前主治医の○○先生、どうしてお辞めになったんですか」
「え、まあね、ちょっといろいろとあって」
「では異動ではなくて?」
「違います」
「お医者は続けておられるのでしょうか」
「それもわからないですねえ」
「病院のHP情報を詳しく更新してくださったり、私の過去の治療の適否について率直なご意見をくださったりしていたのですが、そういう感じのことが・・・?」
「ま、そういうことですねえ」
新主治医はさわやかに苦笑いしている。漫画で言うと、歯がキラっと光る感じだ。
ここの文脈から察するに、率直な物言いをするタイプだった前主治医は上司か、あるいは最終的には出身大学の医局と対立して干されてしまった、あるいはご自分から辞めてしまった、という感じだろうか。
思ったことを何でも言ってくれる先生だったので好きだったのだが。これで呼吸器の主治医は4人目になる。
今後の検診は1年後でもいいですよ、と言われたが、すい臓や乳腺のこともあったので、半年後にお願いすることにした。ついでにCA19-9のマーカーもお願いしたら二つ返事でOKしてくれて、「それならエコーも入れておきますか」とサービスしてくれた。こういうところが世渡り上手な感じだ。彼は出世するだろうなあ。
そういえば、彼のことを、前回のレジデント君が、「四月からお見えになる先生は、ぼ、ぼくの先輩なんですからね!」と得意そうに紹介していた。だから何だ、というツッコミは入れないでおいたが。

 生きていることと、その意味が、はっと私を弾いた。

長い間脅かされていたものが、遂に来るべきものが、来たのだった。さばさばした気持ちで、私は自分が生きながらえていることを顧みた。かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思っていたのだが、今、ふと己が生きていることと、その意味が、はっと私を弾いた。
このことを書きのこさなければならない、と、私は心に呟いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知ってはいなかったのである。(原民喜『夏の花』)

原民喜が広島で原爆に会った直後の部分の描写だ。命の危険に晒された瞬間の、突き刺されるような心境を、彼は「生きていることと、その意味が、はっと私を弾いた」と表現している。
「弾いた」のは誰だろう。
どこかにいる絶対者だろうか。
いや、文法的にも内容的にも「意味」それ自体だ。
普段覆われている「意味」が、何かの瞬間にぱっくりと現れることがある。
言い換えれば、普段私たちは意味なくして生を生きている。


「空襲」を「がん」に置き換えたら似ていると思った。
毎日空襲を受けて、いつかはカタストロフィックな爆弾が落ちてくると予期する戦時下の人々の心境と、毎日不健康な生活をして、いつかは突然大病に倒れるかもしれないとびくびくしている現代人の心境は似ている。
もちろん原爆と比べたらがんなんて小さなものだけれど。


最近この作家の評伝が出たので、読んでみようかと思っている。