ergo sum

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 生きていることと、その意味が、はっと私を弾いた。

長い間脅かされていたものが、遂に来るべきものが、来たのだった。さばさばした気持ちで、私は自分が生きながらえていることを顧みた。かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思っていたのだが、今、ふと己が生きていることと、その意味が、はっと私を弾いた。
このことを書きのこさなければならない、と、私は心に呟いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆ど知ってはいなかったのである。(原民喜『夏の花』)

原民喜が広島で原爆に会った直後の部分の描写だ。命の危険に晒された瞬間の、突き刺されるような心境を、彼は「生きていることと、その意味が、はっと私を弾いた」と表現している。
「弾いた」のは誰だろう。
どこかにいる絶対者だろうか。
いや、文法的にも内容的にも「意味」それ自体だ。
普段覆われている「意味」が、何かの瞬間にぱっくりと現れることがある。
言い換えれば、普段私たちは意味なくして生を生きている。


「空襲」を「がん」に置き換えたら似ていると思った。
毎日空襲を受けて、いつかはカタストロフィックな爆弾が落ちてくると予期する戦時下の人々の心境と、毎日不健康な生活をして、いつかは突然大病に倒れるかもしれないとびくびくしている現代人の心境は似ている。
もちろん原爆と比べたらがんなんて小さなものだけれど。


最近この作家の評伝が出たので、読んでみようかと思っている。