ergo sum

健康ブログであるような、ないような

はてなダイアリーからの引越しにつきリニューアル模索中。

引き続きどうぞよろしくお願いします。

 無視してきたこと

飲もうとした紅茶がなまぬるくなっていたこと
携帯の充電コードが絡まって短くなっていたこと
PCモニターから微かなキーンという音が出ていること
肩にかけたかばんの紐が外側にずれ落ちそうになっていること
足元に物が散らかって、いつも跨いでいること
前髪が伸びて目にかかりそうなこと
めがねが曇っていること
シャツのタグが背中でチクチクすること
パジャマのズボンのゴムがゆるいこと
室内用靴下が足首までずり下がっていること
布団と毛布がずれていること
枕がずり上がっていること
枕がいつのまにか平ぺったくなっていること
歯と歯の間になにかが詰まっていること
食べ終わったスプーンの縁にクリームが残っていること

こういうことを、これまでずっと無視してきた。
いずれも私の「認識」でしかないのだから、「無い」ことにすればそれで済む。ちょっとの不快感を我慢すれば、いずれ忘れる。私は忙しいのだし、やるべきことがたくさんあるのだし。
だが、これらの不快感がいずれも身体的なもので、私の身体を傷つけるものであることに気がついた。意識からは消えても、体の中に蓄積して、こういう不具合や不快感がどんどん私の内部を蝕んでいくのではないだろうか。そういうところから病気は起こるのではないだろうか。
そういえばがんも、小さな小さな炎症の繰り返しから生まれるのだし。
すると無視できなくなる。
私はちょっとずつ「直し」始めた。思い切ってモニターを買い替え、冷めた紅茶を捨て、古くなった靴下を取り替える。「お金がもったいない」と一瞬思ったが、それは私が「お金に支配されている」ということだ。私は私のためにお金を使わなければならない。布団と毛布を整えるのに使う「時間」も同じだ。時間がもったいないから行わないのではなくて、時間は私のためにこそ、使うべきなのだ。
「直す」とは「治す」なのだな。
「思い切って捨てる」の「思い切って」とは、思いを切ることだった。お金とか時間とか効率とか名誉とか思い出とか、モノやコトの周りにまつわりついているさまざまなタグを切り捨てることだと思った。


息子は皿やスプーンの食べかすを、許さじとばかりに全て舐めとる癖がある。マナーとしてはよろしくないが、もしかしたら大事なことかもしれないと思った。だから上のようなことに気づいたわけだし。