ergo sum

健康ブログであるような、ないような

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 ことばの限界

前回のおふたりのコメントの続きを、書いてみる。あのふたりは、どうしてこうもまあ、高い見地からものが見られるのだろう、とうらやましくなる。そうなりたいと、思う。
痛みにせよ悲しみにせよ、本来非言語的な感覚は言語化しないと他人には伝わらない。もやもやっとしたものを一つひとつの単位に切り分けていくのを分節化とか還元とか言うのだが、たいていはその分節化によって矮小化されてしまう。「すごく痛い」は「スゴクイタイ」という六つの音に還元されてしまい、自分の痛みは自分が感じているようには他者に伝わらない。それを聞く側はただのコード(記号)としてしか解読しない。
たとえば医者がその六文字を聞いても、患者の痛みを想像しようとか同情しようとか思うはずはなく(そんなことしていたら仕事にならない)、どのような治療が必要か、緊急搬送の必要があるか否か、の材料にしか、しない。立場が違えば、コードの解釈も違うからだ。
日本の患者は「痛い」のを我慢する傾向がある、と書いたけれど、それはべつに忍耐強い国民性だからとか、謙虚の美徳だからではなくて、上下間の意思疎通の不可能性を悟っていて、しょせん通じない、とあきらめているからではないか。痛いなどと騒いだら、ますます看護師や医者に冷たくされる、自分の不利益になる、だから彼らの言いなりの従順な患者を装っている。結局はエゴと自己保身のための沈黙だ。
そういえば、道路を渡るときに車が止まってくれるとペコペコと頭を下げる歩行者が日本には多い。これも礼儀正しさのせいではなくて、車と歩行者という権力関係を敏感に感じ取って、無意識的に力のある者にへつらっているのではないだろうか。道交法では歩行者が渡るときは車両は停止する「義務」があるので、私はどうどうと渡っているのだが、それでも免許を取るまではその法律を知らなかった。無知のもたらすへつらい。上下関係に敏感な国民性。ますます増長する自動車。強者が弱者を保護する義務、というような市民社会の発想はこの国にはないからね。

話がそれるけれど、私が夜眠れないのも言語化のせいだと気がついた。仕事のもやもやっとした不快感を言葉にしてしまう。夜の暗闇のなか、言葉だけが目の前をぶんぶんと飛び交う。「○○したのに××してくれない」「○○だけが××してずるい」・・・言語化すると、それは「不正」「不公平」などの概念と即座につながり、ますます感情を高ぶらせる。うむ。仕事の不快感はもやもやのままにして、ストーブか湯たんぽであっためて蒸発させてしまえばいいのだな。今夜実験してみよう。