ergo sum

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 卒業式

昨日は息子の高校の卒業式だった。国立大学の合格発表は9日、10日なので息子はぴりぴりしており、まだ結果のわからない状態で集まったり、父兄どうしで話したりするのは気が重かった。だが予想外に良い式で、答辞を読んだのがいわゆる「優等生」ではなくて、率直に思いを込めて気持ちを表すことのできる「いい子」だった。こういう人選をするところが、この学校らしい(仏教系)。
お母さんが毎日お弁当を作ってくれたこと、お父さんが勉強を教えてくれたこと、それから先生がこの答辞を何度も添削してくれたこと(笑)に感謝を述べていた。そして最後に、

「僕たちはたぶん家ではありがとうを言えないから」

生徒全員で後ろをむいて父兄席に「ありがとう」を言ってくれた。こういう男子校の素直な雰囲気がかわいらしい。
私自身の高校の卒業式は、風邪気味で欠席してしまった。そういう社会儀礼に意味を認めない、という反抗心もあったかもしれない。だが何十年ぶりかに子供の卒業式に出てみて、こういう式もいいものだなあ、としみじみ感じた。
儀礼とは、「小さな子供」が「大きな物語」に参加する契機だ。自我の肥大した個人でしかなかった者が、自分の物語を作っていく始まり。
自分でしか自分の物語は作れない。
誰かが自分の物語を作ってくれることはないし、作ってくれるとしてもそれは「誰か」に都合のよい、偽の物語だ。良き子供、良き妻、良き社員、良き納税者、良き被支配者の物語。
「これから社会に出て、あなたは誰ですか、と問われることがあると思います。そのときに自分はこうなんだ、と答えられるようになっていてください。その答えが、○高生です、という答えであってもいいのですよ」
この理事長さん(?)の言葉も良かった。後でお母さんたちと話していたら、この言葉に自分のことを思ってはっとした、と口々におっしゃっていた。そうだよなあ。お母さん業を卒業したら、自分が何になるのかを考えないといけないなあ。午後の謝恩会では、実行委員のお母様が、「子供ではなく、私たちこそ、○高を卒業しないといけないのですね」と涙ながらにスピーチされていた。子供が素直なら、親も素直な学校だ。
ろくにお弁当も作らなかったので、良き母、ではなかったが、「だめな母」や「だめな病人」を卒業したあと、私は何になるんだろう。