ergo sum

健康ブログであるような、ないような

はてなダイアリーからの引越しにつきリニューアル模索中。

引き続きどうぞよろしくお願いします。

 惜しむべき時間とは

カタコトとカートを転がしながら、夜遅く自宅に向かって早足で歩いていた。書類が多かったせいで今日はカートを持参しなければならなかったことを不快に思い、とにかく早く家に帰ろうと急いでいた。歩きながらふと思った。子どもの頃、木でできた犬のおもちゃをパタパタと鳴らしながら引っ張るのが好きだったなあ。何分やっても飽きなかった。かわいい犬をもっているという喜び、それを自分の思いどうりに動かせるという万能感、パタパタと小気味良く手に伝わってくる振動の面白さ・・・ やっていることは同じなのに、大人になるとこうも不快になるのはなぜだろう。
カートが石畳にぶつかって邪魔、重たい、汗をかくとスーツにしみがつく、足も痛い、眠い、疲れた、早く帰りたい、あの信号が赤になる前に渡らねばならない、でないと待つ時間が無駄になる、あしたは開いてるうちに銀行振り込みをしないと・・・そんなのが、私が普段歩いているときの思考だ。そこまでして早く帰ることで獲得しようとしていた時間とは何だったのか。そのために毎日の通勤の歩く「時間」は無駄にしていいのか。移動のための必要悪でしかないのか。
そんな反省の念がこみ上げてきた。歩く時間をただただイヤなものだとしか思わなかった自分は、心が貧しい。さっきの職場の上司の言葉を思い出していらいらしたり、あしたの「しなくては」ばかりを列挙してみたり、私は過去と未来ばかりを考えていて、今やっていることに本当の意味で感覚を集中させていない。それこそ一番の不幸だろう。こういうことが人間を病気にしていくような気がする。