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 両極的な意識が病気をつくる

『病気が教えてくれる病気の治し方』は時間や空間の問題と身体の結びつきを説明してくれる。新興宗教風味なので苦手な人には苦手だろうが、私にはとても面白い。「肝臓」の項目はこんな感じだ。

肝臓は人間の体のもっともすぐれた器官のひとつで、物質代謝作用の枢要でもある。(一、エネルギーの貯蔵、二、エネルギーの生産、三、タンパク質の代謝、四、解毒作用)…マクロコスモスで進化と呼ばれるものが、そっくりミクロコスモスにコピーされたのがタンパク質合成である。…単一対多数という緊張の場で肝臓ははたらいている。肝臓に疾患のある人は、次の点について考えてみよう。
一、正しい評価・査定ができなくなったのはどの領域か?
二、体によいものと有害なものとの区別ができなくなったのはどこか?
三、過多になってしまうのはどこか、限りなく広げようとしているのはどこか?
四、根源への回顧をしているか?多様性が認識の邪魔をしていないか?自分の人生の世界観的なテーマは貧弱ではないか?
五、信頼の気持ちが欠けていないか?


冒頭の「両極性に縛られた意識が不健康を産み出す」、は説得力があった。自分と他人、男と女、などすべてをふたつの相反するものに分ける思考では、必然的に片方を否定し、除外する。だから不健康になる。健康とは「欠けたもののない状態」だからだ。本当の世界には、すべてを包含する「単一」のみがある。二極的に思えるものも、実はコインの表裏や、「入り口であり出口である」ドアのように同時存在している(太極拳の陰陽もコレ)。単一は、言い換えれば「宇宙」ということだ。
ふむふむ。確かに「自分」と「他人」を両極的にとらえていた私にとっては、「他人」はいつも否定や恐怖の対象であり、あるいはそれを覆い隠すために、「自分」を否定したり罪悪感を抱いたりして、やってきた。けれど、そんな必要はなかったのだな。「自分」対「他人(あるいは社会、世間)」という構図でこの世を捉えるのは不幸なことだ。我も彼も、この大きな宇宙のなかの小宇宙にすぎないのだから。そう考えると、人付き合いも気楽になってくる。
まして、がんという病気を契機に、他人=健康=元気、自分=病気=罪悪、のように捉えてしまったらそれは自己否定の最悪のパターンということになる。その構造自体が病気なのだから。
病気が教えてくれる、病気の治し方―スピリチュアル対症療法