ergo sum

健康ブログであるような、ないような

はてなダイアリーからの引越しにつきリニューアル模索中。

引き続きどうぞよろしくお願いします。

 音と空気と宇宙と

最近、天に発ったり、発ちそうな、知人が多くて、ざわざわした心境の日々だった。ブログも書けずにいた。だが今日、少し気持ちが落ち着いた、というか、自分なりに気持ちを「落ち着けた」ので、冗長だけれど心境をまとめてみる。


ピアノの恩師がガンだと人づてに聞いたが、昨年のコンサートではなんの変わりもなく演奏されていた。もう80過ぎたお年だから、なにかしら病気をもっていてもおかしくはない。だが今日の合同コンサートでは事情が違った。入院されてかなり体調が悪化しているので、メインプロは代行を立て、最後の一曲のみ出演されることになったと聞いていた。もしかしたら最後の演奏会になるかもしれない、そんな思いで弟子たちが集まってきた。


ホールの前についたら救急車が止まっていたのでどきっとした。だがまったく関係ない車だった。


プログラムの最後に先生が出て来られた。自力で歩けなくなっていて、医師に車椅子を押され、酸素吸入チューブをつけたままで舞台に現れた。演奏中も横に医師が座って待機していた。もう食事がのどを通らないとのことで、ずいぶんお痩せになり、顔が変わっていた。ただならぬ雰囲気に、私の後ろの方の席からは女が鼻をすすり上げる音が聞こえる。泣くのは勝手だが、そんな汚い音で音楽を邪魔しないでおくれ。


そもそも泣くことなのか?
車椅子に乗ることや、外見上普通でないことは、泣くべきなのか?
それとも痛みや苦痛を類推して、泣くべきなのか?
だがお前はほんとに彼の痛みや苦痛を共感できるのか?
あるいはまもなく彼に死が到来するから、泣くべきなのか?
だが誰でも死ぬのではないか?
死が遠い(であろう)者は、死が近い者を泣く権利があるのか?
それならば私には泣く権利はあるのか?


たぶんそんな問題ではない。私は弱々しい手が奏でる音楽に必死で集中しようとした。伝わってくるのは、音楽に向かう気迫だ。執念ではない。もっと豊かな愛情だ。心配や同情を買うこと覚悟のうえで舞台に上がった以上、生き様や愛する物を表現することの方が重要だと判断されたに違いない。


思考は巡る。私は練習嫌いで怠け者で、よくない生徒だった。せっかく時間をかけて指導していただいたのに、ただ申し訳ない。プロになったり、こうして舞台の最前列で共演するようなお弟子さんたちもいたのに。

だがプロがアマチュアより偉いとか、最前列が最後列より偉いとか、そういう問題だったのだろうか(両極的意識だ、これは)。
私が毎回レッスンの最初にいっしょにスケールを弾いていただいたことは、無駄で無意味だったのだろうか。「もっと手の力を抜きなさい」と何度も注意されたことは無駄だったのだろうか。これは「負け」なのだろうか。


ベートーヴェンの清澄な和音がさらさらと流れる。


デトレフゼンによれば、呼吸をすることは宇宙と一体化することだという。吸うことで外気を裡に取り込み、吐くことで自我を放出する。呼吸器に問題を抱える人間は、宇宙を拒否してかたくなに我を守ろうとする人間だという。
それならば、音楽を聴くことも宇宙と一体化することではないだろうか。空気の振動を耳や皮膚から体内に取り込むのだから。いや、吐息がないぶん、もっともっと生物の根源的な受動性を表す行為だろう。人はそれほどに弱い。空気なしで生きられない。水から上がった魚の絶望的な弱さをもっている。


そうだ。音楽はそうとらえるべきだ。
それ以外のとらえかたをしてはならない。
星々を見て天上の音楽だと言ったのはピタゴラスだったっけ?


だから。負けではなかった。
なんの功績も残さなかった私も、舞台後列の譜面係の若者も、死んで何ひとつその名を残さないであろう客席にいる一人ひとりの平凡なひとたちも、生きとし生ける者みなすべて、宇宙の小さな小さな構成物のひとつであり、なにか大きいものと交信している。劇場のスポットライトはあたらないが、目には見えない光が当たっている。肌では感じない空気に全身を侵食されている。肺胞や腸や血管はいつも外界に向かってぱっくりと開かれている。


人は宇宙に開かれていて、光に溢れている。
地上では昏く見える地球も、遠くから見ればひとつの輝く星であるように。

それに気づくことが、勝ちということかもしれない。
気づかない者は何十年という長い人生の時間を、出世とか金とか、前列とか、入賞とか、CD出版とか、ひとことでいえば自分を他の人間と差異化するものに、費消するだろう。それはけっして頂点にたどり着くことのないシーシュポスの世界なので、永遠に安らぐことはない(不条理なものを作り出すのは人間であって、神ではないと思う)。


光に気づかせてくれるのが音楽だ。いや音楽それ自体が光だ。
先生は音楽を愛した。音楽は先生を愛した。
もちろん先生は、今生きて、音を奏でているのだから、誰よりも輝いている。
それでよい。


演奏後、しばらく瞑目しておられた。
終演後楽屋に戻られた。ほんとうは病院に直行の予定だったのが気分が良いらしく、ひとりひとりとお話しされ、ぼそっとおっしゃった。
「いやあ楽しいねえ、音楽は。一番元気になる」


だから、食事が取れないとか、痩せたとか、そんなことで泣くべきではないのだ。
わかったか、後ろの女!