ergo sum

健康ブログであるような、ないような

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 桜吹雪な人々

仕事で広告制作スタジオに行った。ディレクターは、恐ろしく有能だけれどまったく威張ったり気負ったりしたところのない人で、男なのになぜこんなに柔らかいんだろう、と不思議になるほどだった。知識もさることながら、感覚的な鋭さが突出していて、ここのポーズの後にこの音量でこのフレーズが来ると弛緩した感じになるので助詞のテニヲハを変えましょう、といった微妙な判断を即時にやってのける。メディアの人ってみんなこうなのかなぁ、それともゲイなのかなぁ、などと思っていた。
時間つなぎの音楽がいる、と事前に言われていたのでシフ演奏の「フランス組曲」を持っていった。何度もチェックして私なりに最良のバッハの演奏として選んだ一節だ。それを視聴した彼がぼそっとつぶやいた、「こんな風に弾けたらなあ」。うれしくなって、「あー、ピアノやってらっしゃるんですか」と普通の世間話風に反応したら、「いや…定年後の趣味というか下手の横好きで…」と、とても困ったようにお答えになった。話はそれで終わった。
技術系でも楽器を習っている人は多いし、クラッシックファンも少なくない。でも、なんとなくひっかるところがあって帰宅後彼の名前で検索してみた。すると出てきた。およそ考えうる最高の学歴をおもちで、大手メディアで活躍したが、病気のために退社。その退社祝いパーティーの様子を友人らしき人物が彼の実名入りで個人ブログに掲載していた(実名を出してしまうその友人のモラルはどうかと思うが、彼はそれを批判しなかったのだろう)。
まだ五十代で、たしかに定年と言うには若すぎる外見だ。大きな病気になったために自主退社して、今の広告スタジオに来た。そしてそういう病気とは、がんの類だろう。それで辻褄が合った。「そういう病気」になると、普通の人が気にしていることの99%はどうでもよくなり(体面とか利益とか他人のこととか)、残りの1%のためだけに生きることができる。その1%に音楽の「美」があったからこそ「こんな風に弾けたらなあ」が出たのだと、私は感じた。ただの向上心や、名演奏家への敬意ではない。自分自身の軌跡としてほんとうの美を作り出して、どこかに残しておきたい、という、淡いけれど、切実な希望だった。そんな口調だった。もしかしたら期せずして私に気づかれたことへの照れもあったのかもしれない。


どこかで主治医のH先生と重なった。
見えない砂時計といっしょに仕事をしている。
砂が落ちきったときに後に残る「何か」のことを、いつも考えている。
魂を一点へとコンセントレートさせようとしている。


そういう人のことを「桜吹雪な人々」と呼ぼう。外見だけではわからないが、案外身近にいるかもしれない。ただし、がん患者のすべてがそうであるわけではない。ただの「心を侵された人」なのか「桜吹雪の人」なのかは、とてつもなく違う。