ピアノの恩師のお見舞いにうかがった。前回のコンサートでは、まさにパブロワの「瀕死の白鳥」の舞のような演奏で、文字通り息も絶え絶えでいらっしゃったから、もしや今回伺っても面会謝絶やICUといった重篤な状態かもしれないと覚悟の上で病院に向かった。食べ物もまったく喉を通らないと聞いていたので、花を持参した。
ところが、だ。
え、同一人物?と思うほどびっくりした。実に顔色もよく、生き生きとしておしゃべりをされている(コンサート時は声もでず、メッセージを代読させ、会場中の涙を誘ったのに)。
「さっきいた人ね、あれ、芸大の同期なんだけどね、いやあ優秀だったよ。それから午前中にN響のトップの○さんも来たよー知ってるでしょ?こないだ芸劇でリサイタル開いたんだけどね」
おしゃべりは続く。
「いやあ、医者もびっくりしててねえ。V字回復だと言われてる。やっぱり音楽は効くなあ。楽しいなあ」
ああ、やっぱりあのコンサートがよかったんですね。
私がただならぬメッセージを天空から受けたあの演奏のとき、彼自身も天に癒されていたのですね。
「またやりたいなあ。ねえ。やりたいことがもっともっとあるよ」
私はうなづいたが、「ぜひ次のコンサートを」と言えるほどお調子者ではなかった。
彼は、上品だが率直に自分の感情を表に出すすべを知っていた。だから演奏家(表現者)になったのだろう。
「彼はこんなCDも出したんだよね」
と机の上のCDを取ろうと起き上がったので、私が気を使って支えようとすると
「いや、ここからこの角度だけはね、不思議とまったく痛みなく動けるんだよ。すごいでしょ」
そう笑って、おっしゃる。常に背中の痛みがあって、動くこともままならないと聞いている。痛みなく動けるラインがあることを、誇らしく、うれしく語る彼を、偉大だと思った。
だから神は、彼にそういうラインを与えたのだな。
アマデウスという名前がある。
モーツァルトのファーストネームだ。
「神が愛する者」という意味だ。
音楽を生み出す者は神に愛されているのだなあと思った。
「○ちゃんはイタリアのコンクールで入賞したし、○君は仙台で教えてるけどこないだ来てくれたし、、、僕は恵まれてるねえ。みんながこうして駆けつけてくれるんだから」
お弟子さん自慢が続く。
ーーみなさん先生のお子さんのようなものですからねー
先生に実子はないが、喜ばせようとして言ってみた。
「でもねえ、僕がやりたいんだよ」といたずらっ子のように即答された。
そうか。たくさん子供がいれば悔いなく世を去れるというものではない。
自分のやりたいことをやるために、自分の時間がもっとほしい。
彼にはやりたいことが明確にある。
その無念さに代わるものは、何もない。
レッスンのあとの先生との会話はいつもこんな感じだった。
温厚だけれども好き嫌いのはっきりした方で、業界の不満からライバルの悪口まで先生はくったくなく上品におしゃべりされ、私がよくわからないままに相槌を打つ。師弟関係の緊張感は皆無の、そんなのんびりした空間だったが、それはそれで先生も楽しんでいただけたのかな、と思っている。私は聞き役くらいは果たせていたのかな。
「もうすぐ雷雨が来るから早く帰った方がいいよ」
と先生から気を利かせてくださったので、病室を後にした。
部屋を出るとき、先生はずうっとこちらを凝視されていた。
相次ぐ知人の病気で落ち込んでいたが、先生の姿を見ていたら、不幸とは病気の外にある別の何かだと感じた。
幸福だ、恵まれている、と考える人は、やはり幸福なのだ。
そういえば先生のご病気も、同じ肺がんだ。自分のことは黙っていたけれどね。