ergo sum

健康ブログであるような、ないような

はてなダイアリーからの引越しにつきリニューアル模索中。

引き続きどうぞよろしくお願いします。

 他者理解

子どもの受験の山場で、毎日くたくたになっている。赤ん坊だと思ってたのが、半人前くらいの人間にはなっていて、いろいろなメンタルケアをしなければならないし。2月5日くらいまでこれが続くのだ。なかなかブログの更新もできない・・・ごめんなさい。
星さんのブログも気になっている。ブログが消えたときは地上を去ったときだ、と言われては、毎日それを確認せずにはいられないけれど、見るのがこわい気もする。
そのブログへのコメントで、ある人が「私は健常者ですが、共感できます」とか「閉鎖になる前にさっさとコピペしちゃいました(笑」みたいなことを書いていた。その無神経さに対して、別の人がかみついていた。まあこういう状況でコメンテーター同士がいがみあうべきではない、ということはおいといても、この無神経なコメントに腹が立つのはよくわかるし、不当な扱いを受ければ抗議すべきだとも思う。あれを読んで私も、「そうか、がん患者って健常者じゃないのか」、と思ってしまったもの。相手は、「普通の健康な人間」のつもりで「健常者」の語を使ったんだろうけれど。その一方で、これに過度に怒ったりするのは、私たちの「障害者」に対する差別意識の表れにもなってしまうから、それもみっともないし。結局はすべて、相手の気持ちに対する想像力の問題に帰着する。
子どもの国語(物語文)の読解のキーワードも「他者理解」。自分とは全く違う他人を「きちんと」理解できるか、だ。国語というと、いろいろな答え方があるようで、実は正しい答えは一つしかない。ある人が、ある状況で、ある刺激を受けたらどう感じるか・・・その答えは一通りしかないのだから。「テストで百点とったら?」「うれしい気持ち」「でも、はしゃいでいる喬を他の子がけげんそうな目でみていたら?」「知らない」「知らないじゃなくて、恥ずかしげに答案を机の中にそそっとしまうでしょ」「へー」「誇らしい気持ちが恥ずかしい気持ちになるでしょ」「ふーん」・・・うちの子どもの場合、どの局面であっても、「テスト百点=うれしい気持ち」としか答えられない。それはちょうど、大人の世界で、どのような状況であっても、「女の子って、守ってほしいタイプなんだよねー」「東京の人って、関西弁嫌いなんだよねー」のように相手の気持ちを「決め付ける」のと、同じやりかただ。それは想像力の欠けたものによる、押し付けであり、一般化だ。暴力だ。
感情とは「刺激に対する反応」なんだから。それは、正しくとらえなければならないのだ。――せめて、そういう勉強を子どもがしてくれるのであれば、受験は意味があると、思う。