ergo sum

健康ブログであるような、ないような

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 四十九日の海

父の四十九日に行ってきた。線香の煙と木魚のポクポクという音に全身を満たされながらお経を読むのも悪くない。もともと何教であるにせよ、スピリチャルな話は好きだ。
その後お墓の雑草を抜いてきれいにし、墓石に水をかけるとすっきりした気分になる。これで仏様の弟子になってあの世に行けたね、あとは良い霊になって私たちを守ってやっておくれ、と声をかけた。

遺産のことについては、事業をしていたので、わずかなプラスとかなりのマイナスが複雑にからみあっており、たいへんややこしかったので遺産放棄の手続きをした。たとえば、田舎の、わずか数平米なのに持分1/12などといった土地を承継するのは利口ではないだろう(どうやら父の一族は、誰かが死ぬたびに兄弟で分割相続を行ったようで、年を追うごとに資産が分散していく)。また仕事関係者が勝手に印鑑登録カードを持ち出して資産名義を書き換えたりしていたが、争う気力もない。
一番大切なのは自分自身の時間の無駄や精神的な不快感を無くすことだ。いつ債権者が尋ねてくるかとびくびくしながら生活するのも絶対にいやだ。現在自分の職や資産があるのだから、親の遺産にしがみつく理由もない。


太平洋の海沿いを新幹線で走ると気持ちがいい。日の光を浴びて水面がキラキラ光るのはなんとも美しい。
世界は偉大なる調和のうちにできている。
それを認めようと思った。


前回の『ぼくを葬る』の海辺のエンディングは明らかに『ヴェニスに死す』へのオマージュだと気づいた。
究極の「美」を見ながら自然の懐で死に、自然の水に流されて塵となる。
これに勝る幸福はないだろう。
中学生の頃見たヴィスコンティは衝撃的で、意味がわからなかったけれど、今となっては、汗で眉墨を頬に垂らしながら死んでいくエッシェンバッハはけっして「醜い肉体」ではなくて「美を見た者」として昇華されたんだなあ、ということに思い至る。