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 「物語のシンプルさ」という恐怖

秋葉原で起きた殺人事件の加害者がネットに行った書き込みのおかげで、その人柄を知ることができる。「ブサイクだから女にもてない」、「女はちやほやされてうらやましい」、「親に無理やり勉強させられた」・・・彼は自分の不幸の原因をすべて容姿や両親のせいにしていた。頭はいいはずなのに、彼が作り出した「物語」は異常なまでにシンプルだ。

目に付くすべてのシグナルを、「ひとつのできあいの物語」を流し込んでしまえば、メッセージをそのつど「適切に解釈する」という知的負荷はなくなる。メディアで「正論」を語っている人々の中に「話の途中で、自分の解釈になじまないシグナルに気づいて、最初の解釈を放棄する」人を私は見たことがない。この二十年ひとりも見たことがない。
これはほとんど恐怖すべきことであると私は思う。
知的負荷の回避が全国民的に「知的マナー」として定着しているのである。
今回の秋葉原の事件に私が感じたのは、犯人が採用した「物語」の恐るべきシンプルさと、同じく恐るべき堅牢性である。(内田樹氏のブログより)

「知的負荷の回避が全国民的に「知的マナー」として定着」とは、うまい表現だと思う。戦争中は鬼畜米英という物語を全国民が享受したわけだが、現代日本は「私の不幸は○○のせい」と責任転嫁する物語がまさに全国民に定着していると思う。○○は何でもいい。若者にとっては「格差社会」、老人にとっては「後期高齢者制度」などなど。
ところで、乳がん患者にとって○○は何だろう? 「胸がないから男にもてない」「(胸のある)女はちやほやされてうらやましい」、これがダントツではないだろうか。それもまた明らかな「物語」なのに、そしてそれは、秋葉原の加害者と同様に「くだらない」妄想なのに、誰もそのことを問題にしない。問題視すらされない。一つには、私たち患者は世間で語る力をもたないから、もう一つにはそういうことを私たちは無意識の奥に追いやってしまっているから、そしてもう一つには、そういう物語に浸ることをむしろ男社会が歓迎するからだ。欠落部分を化粧や下着で必死になって補うことで、私たちは「消費者」として、消費者としてのみ、機能するのだから。