ergo sum

健康ブログであるような、ないような

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こわい夢

昨夜は寝つけなくて、たまたまやっていた『チャイルドプレイ』という人形が人々を殺すホラー映画を見たまま眠ってしまった。すると見るわ見るわ、久しぶりに怖い夢にどっぷりと浸ってしまった。見えない何者かに私と子供が脅かされている。それは超越的な力をもっていて、逃げても追ってくることがわかっているから、いくら怖くてもここで日々を送らなくてはならない。TVのホラー映画は休む間もなく恐怖が訪れるが、実際は、どんな恐怖の世界にも「日常」があるわけで、5分や1時間、そういう、何もない静寂の時にどういう精神状態を保てばよいのか。その「自由」がかえって怖い(収容所の発狂などもそうだろう)。私は必死に日常を取り戻そうとする。食事を作る、布団を敷く、だがシーツが微妙にずれていてそこに乾燥した芋虫が(子供が夏休みの観察のために大量にとったバッタを乾燥させてしまったせいだろう)散らばっている。「ママそれ…」「いいえ、ただの芋虫よ、何でもないのよ」と子供の前でいっしょうけんめい平静を装う私…
そういえば、子供の頃は生死に関わるようなとびきり怖い夢をたくさん見た。犬に追いかけられたり、宇宙に投げ出されたり。だが大人になるに従って、夢もまた社会化され、会社に遅刻するとか書類を紛失するとか、些細だが不愉快な経験だけが夢になっていく。こうして死の恐怖は無意識の彼方に封印される。ところが映画のおかげでそれが、ものすごく久しぶりに、噴出した。どうしようもなく怖かったのだが、それが本当なのだ、怖いもののない世界の方が嘘なのだ、と夢の中の私は感じていた。
「それ」をガンと解釈することもできる。病気になってこのかた、治療法や病院のことなど、社会的な葛藤ばかりに神経をすり減らしていた私だが、もしかしたら、こうして五臓六腑で慄き、本能的に死を恐れることも必要なのかもしれない(おまけにノルバデックスの副作用だと思うが、動悸が止まらず、臨場感たっぷりだった)。恐れるからこそ、治り、生きようとするのだ。身体で恐れ、身体で癒えなくてはならない。そういう本源的な意志を明確に持ち続けたい。
「こわい夢見たの。あー怖かった」と息子(8歳)に語ったら、こわい夢を見ない方法を教えてくれた。「あのね、目をずっと開けたままね、まばたきしちゃだめだよ、世界のすべてのことのこわい夢を見ませんように、って神様にお願いするの。これやると僕、一度もこわい夢見ないよ」 赤ちゃんの頃と違って、こういう話が対等にできるのって、うれしい。