ergo sum

健康ブログであるような、ないような

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 時間は高速で流れている


冒頭の犬とじいちゃんの旅立ちのシーンがあまりに印象的だったので、『刻刻』という作品を全巻を読んでしまった。子供の誘拐を契機に、時間が止まった世界「止界」に入り込んだ祐河家の人々とその敵たちとの物語だ。だが、いわゆる少年漫画にありがちな、ヒロイックな主人公が異界で次々と怪物と戦うホラーもののテイストがほとんどない(もちろん暴力やグロテスクはたくさんあるが)。じいちゃんも父ちゃんも翼おじさんも祐河家の人々はあまりに平凡で、いや、平凡以下の引きこもり&無職の一家で、なにか世界を救うなどといった使命感も全くなく、彼らなりの行き当たりばったりの判断で動くのだけれど、それがすごい力になっている。そのリアルさが面白い。
それで思ったのだが、不思議なことに、私たちはこの高速で時間が進む世界を、あたかも時間が止まっているかのように生きている。この日常がずっと続くはずだと信じている。周りの変化を認識しようとしない。変化に応じて自分を変えようとしない。
もし自分が変わらないのだとすれば、言い換えれば、ものすごい速さで時間を逆行していることになる。それでは正気を保っていられないから、だから思考停止になる。そんな気がした。
物語の中では、何も知らずに止界に入り込んだ人や、守るべきものをもたない者たちは正気を失い、絶望し、考えることを止め、そして神ノ離忍という地縛霊のようなものになる。
逆に、いつ何時でも自分なりの認識や行動基準を保てる人は、強い。平凡な者の強み。

「ガンになりました」と言われると人が動揺するのは、時間の問題があるのだと思う。これまで止まっていた(と思っていた)時間が、突然ものすごい速さで流れ始める。その恐怖についていけない。だけど、宣告前から、常に時間は流れ続けていた。時間に合わせて刻々と現実を認識し、自分も変わっていれば、怖いものはなかったはずだ。ちょうど、高速で車を走らせていても、周りの車も高速で走っていれば相対的に怖くはないのと同様に。
刻刻(1) (モーニングコミックス)