ergo sum

健康ブログであるような、ないような

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 ねずみとの別れ

昨日の午後、帰宅したらペットのモルモットが倒れていた。息もしていないし、触っても冷たいので、最初は死んでしまったと思った。だが動かすと一瞬足が動いたので、大急ぎで動物病院に連れていった。扉の向こうからは、「先生、これ死んでますよ」という看護師の声が聞こえてくる。だが獣医は黙っててきぱきと処置を始めた。
まず温める。お湯の入った点滴袋の上に置いてとにかく体温を上げる。
脱水状態であまりに血圧が低いので足からの血管が取れない。そこで皮下にステロイドなどを注射して全身に回るのを待つ。
すると呼吸に応じてお腹が上下し始めた。ああ、まだ生きていた!
少し経ってようやく点滴ができるようになった。先生は縫い針よりも細い針を巧みに後ろ足に刺していた。
こうして一時間くらい経つと、触れれば手足をぴくぴくと動かすまでに回復した。
「あと一時間遅かったら間に合いませんでした」
「今朝まで普通に元気で餌も食べていたのですが、突然どうして」
「草食動物は弱みを見せるとすぐに捕食されてしまうので、限界まで元気に振舞うのです。また犬猫のように吐くことができないので、気づきにくいのです」
そうなのか。
最近痩せていたのはわかった。もう6歳の鼠だから老衰なのかと思ったが、先生いわく腹部に2センチくらいの腫瘍がある。このせいで内臓に影響が出て全身状態が悪化したのだろうとのこと。血液を調べたが細菌感染などではない。
今は急性期なので、腫瘍の細胞診等よりも全身状態を改善させることが最優先。後は体力勝負だとのこと。


話を聞けば聞くほどモルモットの治療はたいへんだ。輸血ができないから極力出血しないように手術をしなければならない。犬猫のように器官に送管できないから緊急時は酸素マスクしかない。ハーネスをつけてひっぱっただけでショック死するくらい敏感なので、乱暴な処置は行えない。
先生は確固たる優先順位に基づいて適切に処置してくれた。獣医さんってすごいと思った。
人間の医者みたいに、流行だからハーセプチンやっときましょう、とか、医局の業績になるからダ・ビンチ使いましょうとか、そんな邪心は一切ない。ただ、純粋に命を救うための奮闘だった。
おかげで一瞬息を取り戻した。


そのときちょうど予備校の授業が終わった息子が到着した。鼠の姿を見た瞬間、目と鼻から液体がじゅわっと噴き出した。鼻ちょうちんがいっぱいできたので、ハンカチを渡した。
「今夜が山なので、自宅に連れ帰ってあげたらどうですか」と先生に言われたのだが、息子は、入院させて点滴等の処置を続けることを希望した。点滴しても治るわけじゃないんだよ、と説得したが、最後まで最良の医療を受けさせてやりたい気持ちだったらしい。息子は医学を信じている。(医学部を受験する学力はなかったが、終生医者に憧れ続けるだろう。)
病院を離れる前に、それぞれが鼠に触れて、これが最後かもしれないと案じつつ、でもがんばれよ、の言葉をかけてやった。ここで「がんばれ」という言葉が適切だったのかどうかはわからない。家族が来るまで既にがんばったのだから、一旦蘇生してくれたのだから、もう十分だったかもしれない。
夜中にはかなり回復したらしい。「草まで食べようとしたんですよ」、と先生が言っていた。
少しでも良くなると、すぐに立ち上がろうとしたり、餌を食べようとする、その、命に対するひたむきな姿勢が痛ましいし、そして、眩しい。
動物には、ひたむきさしかない。
悩んだり、文句を言ったり、他人を責めたり、甘えたりしない。


ひたむきに生きようとする動物と、ひたむきに助けようとする医師。それが医学の本来のかたちではなかったか。
(ところが今日、人間はもう動物ですらなくなって、欲望とルサンチマンの化け物になり、医師もまたその化け物に寄生する商人のようになってしまった。)


朝方、病院から電話をもらって再び駆けつけたときには、もう息を引き取っていた。呼吸器には異常はなかったので、それほど苦しまなかったのだと思いたい。


たかがペットのことなので、それほど引きずらないと思っていた。だが、私には思ったより堪えたようだ。鋭い喪失感が未だに消えない。遠くの親の死よりも、身近なペットの死の方がショックだった。


籠に入れっぱなしにしないで、もっと遊んでやればよかったのに。
爪が伸びて汚れたままになってしまった。もっときれいにしてやればよかった。
もっと撫でてやればよかった。
なんでお腹の腫瘍に気づいてやれなかったんだろう。(人間の腫瘍は10年かけて1cmになるが、モルモットの場合2センチになるのは2週間から2ヶ月くらいらしい)
人間のアレルギーを引き起こしたのでチモシー種の草を断念したのだが、もっと繊維質の多い食事を与えるべきではなかったか。
生後3ヶ月で親から離されてペットショップで売られ、息子が彼を選んで「買った」のだけれど、そのひとつの命を引き受けるだけの覚悟を私たちはもっていただろうか。どうせ動物だからと確信犯的に籠に放置しはしなかったか。
その「確信」が、情けない。
そして最期になって初めて、慌てた。
慌てるくらいなら飼わなければよかったのに。
自分たちの「癒し」だか「娯楽」だかのために飼って、果たして彼に対して何ができただろう。
でも、家族の一員だったし、私たちは多くのものを得たのだから「ありがとう」を言わなければいけない。
家に連れて帰って、3人それぞれがメッセージカードを書いて、お供えをし、我が家なりのお葬式をした。明日は火葬だ。


10センチたらずの小さな生き物が、口もきけずに苦しみに耐えている姿は痛ましかった。
「痛い」とも、「つらい」とも、「キュー」とも言わなかった。
動物は、生まれたときから自分の天命をきちんと引き受けている。
その潔さが私にはあるだろうか。いや、ない。


戦いが終わって、白いお布団にぬくぬくとくるまれて、ほんとにぬいぐるみみたいにぐっすりと彼は眠っていた。
黒々と目が開いたままなので、よけいぬいぐるみみたいなんだよね。