ergo sum

健康ブログであるような、ないような

はてなダイアリーからの引越しにつきリニューアル模索中。

引き続きどうぞよろしくお願いします。

 ねずみとの別れ(その2)

確かに最近、ねずみは痩せてきていた。だが老化に伴う自然現象だと思っていた。
2、3週間前だったか、泣き声が変だった。普段は冷蔵庫の開け閉めの音を聞くと、キュイーキュイーと可愛らしい声でなくのだが、そのときは、風邪をひいたみたいな掠れ声しか出なかった。風邪なのだろうか、老化なのだろうか。だが、しばらくしたら元に戻ったので、気にしなかった。(このとき病院に連れていけばよかった)
そして、最後の1、2週間。不思議なくらい食欲があった。いくら餌を満タンにしても、すぐに無くなってしまう。水の減りも早く、水のみ器を朝に満タンにしても、夕方にはほぼ無くなっている。さらに私が冷蔵庫を開ければ、キュイーキュイーと必死に鳴くので、好物のキュウリや水菜をあげた。お年寄りなのに食べすぎじゃない?ダイエットした方がいいんじゃない?なんて暢気に思っていたが、思えばこのとき彼の体は相当悪くなっていて脱水状態や栄養不足が進み、だからこそ、必死に大量の水や食べ物を口から取り込もうとしたのだろう。動けなくなる直前まで必死に食べ続けて、自分の命を支えようとした。
そして金曜日の朝。いつも通り、私のスムージー用の残りの小松菜をあげると、大喜びでむしゃむしゃ食べ始めた。今日は特別サービスだよ、と言って、3枚ほど小屋の網にかけてやって、そして仕事に出かけた。
4時ころ帰宅した。玄関に小屋があるのでいつも声をかけるのだけれど、なんだか気配がない。普段は下に敷き詰めていた新聞紙の中に姿が隠れているのが見えたが、一度も見たことのない、手足を横に投げ出した姿勢だ。
もしかして。
触ってみるが、冷たい。息をしている様子もない。どうしよう。どうすればいいんだっけ? 人間だったら脈をとったりするけれど、ねずみってどこで脈をとるの?頭や背骨を触ってみるが、骨ばかりでごつごつしている。いつのまにこうなってしまったんだろう。どこが悪いんだろう。
半ば死んだと思っていた。だが小屋から出そうとして両手で持ち上げたら、足が一瞬ぴくっと動いたような気がした。
気のせいかもしれない。死後の痙攣かもしれない。
でも、このまま一人で鼠の死を断定して、手続きを進める勇気はとてもなかった。
急いで近所の獣医を調べて、連れて行くことにした。病気か何かのときに運べるように、と買ったペット移動用の手提げバックがあったので、そこに入れて運んだ。そのバッグは最初で最後の使用になった。
・・・慌てていたので、そのバッグのプラスチックの台にそのまま鼠を置いて出かけてしまった。(せめてやわらかいタオルでも敷いてやればよかったのに。まだ生きていたのだから。後になってそのことに気づいて、すごく後悔した。死んだ後に病院が真っ白な敷布と真っ白なお布団に寝かせてバッグに戻してくれたとき、ねずみに尊厳が払われているのを目の当たりにして、行きに私がタオルを敷き忘れたことに気づいたのだった。)
なるべく振動がないようにと、タクシーで病院まで向かった。


その後のことは前回書いたとおりだ。病院の処置のおかげでいったんは一命を取り留めたが、夜明けに亡くなった。
家に戻って、ふと小屋を見ると、今朝やったはずの小松菜が、一本だけ網にひっかかってしなびている。3本やったうちの一本だ。普段は生野菜を食べ残すことは絶対にない。2本まで食べて、そして力尽きたのだろう。敵に捕食されるのを防ぐために、小動物は直前まで元気に振舞って、最後に死期を悟ると人目につかない穴や影に潜るのだそうだ。だから新聞紙の中に潜り、身を隠したのだろう。彼なりの死の迎え方だった。


最後に病院で手厚い処置を受けられたこと、そのおかげで家族のみんなが一目会えたことは幸いだったと思う。後で病院から鼠宛にオレンジ色のきれいな花束が届いた。いい病院だった。
だがいろいろな悔いが残る。死因はおなかの腫瘍だし、もう6歳という老年だから仕方ないとわかっている。だが息子は、鼠が死んだのは私のせいだと言う。それが悲しい。
確かに餌係として餌のあげ方が十分でなかったかもしれない。
もっと早くに病院に連れいくこともできただろう。
異常があってもすべて老化のせいにしてしまった。
自分の生活が忙しいことを理由に、思考停止状態だった。
自分の生活や健康のことばかり考えていた。
なぜ、この生き物と正面から向き合ってやらなかったのだろう。
なぜ、もっと抱いて、もっとお風呂に入れて、遊んでやらなかったのだろう。
そんな風に考え出すと止まらない。


子供のためのペットだからと、かなり割り切って飼っていたつもりだったが、ねずみは思いがけず多くのものを与えてくれた。
うちに来てすぐの頃、人間で言うとまだ2、3歳のあどけない頃に、足の爪をひっかけて剥がしてしまった。つらかったろう。最初はじっと身動きせずに耐えていた。負傷したときはけっして餌を食べず、すべての代謝酵素を傷の回復に使うことを知っていたのだと思う。そして治り始めたときには、全力を振り絞って、餌箱を巣の前まで30cmほど移動させ、歩けなくても餌が食べれるようにした。そして一週間くらいで傷を治した。
この鼠には、そういう知恵と、生きるための確固たる意志があった。


犬や猫だったら、飼い主に媚びたり甘えたり、あるいは餌をもらうための駆け引きや脅しもあっただろう。だが鼠は、そこまで知恵が回らず、また人間などには依存しないので、常に独りで生きていた。
その純粋さが尊く、そして切なかった。
その絶対的な孤独のなかで、何を感じて生きていたのだろう。


モルモットはあまり動き回らない生き物で、普段は、もしゃもしゃと餌を食べるだけだ。
だが彼は最後に食べることによって、生きることの情熱を見せてくれた。
最後まで食べていた。
最後まで命を支えようとしていた。
私はものすごい宝物をもらった。
だから、ありがとう、を言わなければならない。
もいさん、ありがとう。


今朝、いつものように野菜ジュースを作ろうとしたけれど、野菜の切れ端を食べてくれる仲間がいなくて困った。しばらく小松菜の尻尾をもったまま、呆然と立っていた。ゴミ箱に捨てるのが悔しかった。