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 ノイマイヤーの世界

ハンブルク・バレエ団の「ノイマイヤーの世界」を見たので、記録しておこう。子供の受験騒動から離れて、ひとりで芸術に浸ることができたのは、よかった。
ノイマイヤーは最も好きな振付家の一人だが、この作品は彼の自伝仕立てで作られている。子供のころ親に連れられて見たアメリカン・ミュージカル、初めて習ったタップダンス、バレエとの出会い、振り付けの始まり、そして彼の主な振り付け作品の紹介など。これまでばらばらでDVDで見てきた作品がメドレーのようにつまっているので、私にとっては贅沢な3時間だった。ふうう。すごいなあ。かなわないなあ、と閉幕後涙ぐんでいた。
ノイマイヤーは美を空間化・時間化する才のある人で、それでいて抽象的にならず、きちんと魂を込めている。メッセージを一言で言うと、「生の官能」。愛が官能につながることはわかりやすいと思うが、生きることも、踊ることも、それから信仰することも、官能なのだ。
人間の肉体って、こんなにも美しいのか。
肉体と肉体が絡むと、こんなにも美しいのか。
人は人をこんなにも美しく見せることができるのか。
前のほうの席だったせいもあって、ダンサーの筋肉や足元がよく見えた。彼らが両手や両足を開くたびに、彼らの体感が伝わってきて、どきどきする。


個別のコメント
・「椿姫」は彼の最高傑作だ。DVD版で見慣れていたルテスチュの高貴なマルグリートとはぜんぜん違って、コジョカルはもっと小柄で、色っぽさと純真さが全身からにじみ出ている。一言でいうと、男を興奮させてやまないエロさなのだが、それがバレエという様式美において表現されうること自体が驚くべきことだった。
・「マタイ受難曲」。俗っぽく喩えると、『ジーザス・クライスト・スーパースター』のバレエ版だ。全員が白をまとって踊り、天使のようであり、使徒のようであり、それでもやっぱり人間だった、と解釈される。中心にすえられるペテロの苦悩が圧巻で、有名なバイオリンソロで始まる「憐れみたまえ、わが神よ」Erbarme dich, mein Gottの曲に合わせて、自分の胸を叩きながら慟哭する。自分が守るべきイエスを、預言とおりに鶏が鳴く前に三度否認したことを悔いるのだが、バッハの曲は人類が知るかぎり最も美しくかつ激しく表現された悔恨の念である。それを人体を使って最も的確に舞台化していた。
・「opus100」はバーンスタインのためのオマージュだ。黒いコートを着た二人の男がサイモン&ガーファンクルの歌に合わせて踊るのだが・・・もうね、バーンスタインを本当に愛してたでしょ、身も心もほしいと思ったでしょ、そんな気持ちが直に伝わってしまう。ゲイっぽい、暑苦しい愛情を余すところなく表していたこの作品は、一番楽しかった。
・「マーラー3番」。(「ヴェニスに死す」にせよマーラーにせよ、私が大好きなものが不思議と全部プログラムに詰まっていたのだが、たぶん官能と耽美とスキゾフレニックな点で、共通していたのだろう。)ライブビューイングでこれを見たときよりも、生で見たほうが圧倒的に迫力があった。マーラーが最終章に与えたタイトル「愛が私に語るもの」What Love tells meに惹かれて作ったそうだ。マーラーといえば、自分が精神病になりかけるくらい、妻への独占欲や嫉妬に駆られた人物で、映画『マーラー』の中でもフロイトさんに何度も精神分析を受けている(危ない男どうしが助言しあってる危うさが、なんとも言えない)。そういう妄執としての愛も、曲にされ、さらにバレエ化されると、昇華され、浄化される。その不思議なパワー。前面に立つ裸の男「私」の後ろで、ワインレッドの衣装を着た無数の男女のペアが淡々と、ゆっくりと、周り続ける。血液を連想したせいだろうか、まるで私の体内の細胞たちが、あるいは分子たちが、私にかまわず生を営んでいるかのように感じた。マラ3を「恋愛」の曲として矮小化するのは好きではないが、生きるという人の営みとして拡大して捉えれば、とてもよくわかるような気がした。