ergo sum

健康ブログであるような、ないような

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 紙一重の差

しまった、と思った。


夕方に飲み会があり、気が進まないがお祝い事なので欠席しづらい。五分前に駅に着いた。そういえば近くに100均があったので、入院する前に父のサンダルを買っておこう。あっちだ。横断歩道が赤になりかけていたが、よく知った交差点で多くの人がいたので大丈夫だろうと思って小走りに渡り始めた。左折してきた車に足を引っ掛けられて一瞬宙を飛び、背部から地面に落ちた。後頭部を打ったがそれほどひどくないと自分でわかった。一応警察を呼んだが、怪我はなかったので人身事故扱いにはしなかった。遅れて宴席に着き、「ごめんなさい、軽く車にぶつかってました」と言ったら変な顔をされた。車にふっとばされるのは二度目だが、いずれも怪我がなかったのは幸運かもしれない。


時間を節約したつもりが、こんなことになってしまった。しばらく動揺していた。最近私は小さな事故をいろいろと起こしている。包丁で指をちょっと切ったり、圧力鍋に腕が触れてやけどしたり。視界の落ちる夕暮れ時とか相手方が悪いとかいう話とは別に、自分自身がまずい状態だった。お祝いならお祝いに徹してそれを楽しむべきだったし、サンダルを買うなら計画的にスーパーに行けば済む話だった。中途半端にあたふたしている。
相手の白い車にくっきりと残った私の靴の染料が生々しい。


父のことにせよ恩師のことにせよ同僚のことにせよ、しょせん他人だ、なるようになる、と意識上では割り切っていたつもりだが、無意識の領域では整理がついていないようだ。そのつけが来た。特に老人や幼児など、明らかな弱者に付き添って歩き、彼らを守る立場にあると、いつのまにか自分だけは万能で不死身であるような感覚に陥る(子育て中のお母さんもこれね)。ご自愛くださいね、とyoccyannさんなどから言われたが、ほんとうの「自愛」はできていなかった(いや、そういう私の性格を知っているからしつこく自愛を勧めてくださったのかな。もうわかった。ありがとう)。
帰宅したら、終戦記念日にちなんでNHKが「被爆者の手紙」という特集をしていて、ぼおーっと見ていた。レポーターが「偶然助かった私たち」と記載したら、「紙一重の運命で助かった私たち」の文言に変えて欲しいと被爆者から要望があったという。ただの偶然、つまりルーレットを回して50%の人は白、残り50%は黒というような偶然によってではなく、自分もほんとに死の1mm隣にいて、それでいて驚異的な何かの力によって、しょうがなく「残された」、その畏怖にも似た感覚を表すには、「偶然」の語はあまりに軽すぎる。


それが直感的に共感できた。もし打ち所が悪ければ、親のことだの、がんだの言う前に、自分が死んだり重傷を負っていたことだろう。誰かが私を護ってくれた、と考えると宗教ぽくなってしまうが、やはり私は絶対死ねない。生きてやるべきことがある。息子を悲しませたくない。その意思が、あるいはその意思を汲んでくれた何かが、私を助けたのかもしれない。