ergo sum

健康ブログであるような、ないような

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 カタストロフに寄せて

今日は東北の大震災の7年目の日だったので、午後には黙祷した。


カタストロフ(災難、災厄)というのは、人の強さと弱さを剥き出しにする場だと思った。


日常を覆っている物が何もなくなってしまうからだ。
日常では、さまざまな欲望désirs があたかもbesoin(生理的必要)であるかのような顔をして跋扈しているが、カタストロフにおいてはbesoinがそのままに現れてしまう。
アガンベンのいうzoe(剥き出しの生)だ。


震災や戦争だけでなくて個人的な経験も十分カタストロフたりうる。
たとえば、がんの宣告。
昨日までの普通の欲望――新品のかばんが欲しいとか、季節限定味のシュークリームが食べたいとか――がそっくり消えてしまって、ただの水一杯を飲むことがどういうことなのか、私の喉やお腹をどう通過するのか、といった生理的な経験だけが立ち現れる。
いろいろな欲望が虚しくなる。
何もすることがなくなる。


職場ではいささか偽善的なカタストロフ・シンポジウムが行われ、
このときだけ、キズナとかユウアイとかいう道徳ごっこに耽ったり、
カタストロフは廃墟のイマージュであるとか、カタストロフは追憶によって反復されるとか、
そんな理屈をこね回す人々が現れるが、
それはたぶん、カタストロフを体験したことのない人だろうな。


当事者にとってのカタストロフとは、なにか、とんでもないものだ。
この「とんでもなさ」がカタストロフの本質だ。
日常という防波堤の中に突然大波がやってきて、こまごました欲望を一切合財浚っていく。
私の枠組みすらも不確かになって、
ただ存在するだけの何かになる。


まさか私が、なんで私が、
いったいどうして、
いったいいつから、いったいいつまで
――最初はいろいろな問いが空回りするが、どれも意味は同じだ。
「受け入れたくない」。
それをはっきりと認識した方がいい。
私は、こんなこと嫌なのだと。
嫌だけど、偶然起きてしまったのだと。
(がんなんてただの偶然です、とyoccyannさんが教えてくださった)
それ以上でもそれ以下でもないので、後はどうするか、だけのことだ。


想定外であることへの驚きは
幼子の行動が予測不可能であるのと大差なく、
日常が断ち切られた怒りは
既得権を奪われて怒る政治家の怒りと大差なく、
神様から見たら、実につまらないことであろう。
だから「とんでもなさ」にあぐらをかいて自己を憐れんだり、怠けたりしていてはいけない。


せっかく剥き出しになったのだから
空気や水にじかに触れて、
その冷たさや痛さをありのままに感じよう。
それが自我の再構築の第一歩だ。


下の写真は、名づけてカタストロフ豆苗。
ふだんは適当に刈り取って食べるのだが、
あまりに精神的に忙しくて放置していたら、こんなふうになってしまった。