ergo sum

健康ブログであるような、ないような

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 斜め前の机

同僚が突然亡くなった。数日前から微熱や体調不良はあったが本人は風邪だと思っていた。帰宅後突然悪くなって救急車で運ばれ、6時間後くらいに息を引き取った。ご家族が動揺し、死因すら職場に伝えてくれないので気になっている。心臓系の発作とは違うようだから、脳血管性なのだろうか(教えてドクター・・・)。高血圧はあったらしい。
ご高齢の人や持病もちの人ならばある程度覚悟しているが、まだ50代の男性の突然死はショックだ。職場の机の上に白い花が飾ってあるのを見るのもつらい。きわめて優秀だが、そっけなく、無駄話などしないタイプの人だが、私もずいぶん助けてもらい、好感を抱いていた。
うーん、悲しみとは違う。喪失感もまだ実感がない。やりきれないという感覚だろうか。それとも自分と重ね合わせることの恐怖だろうか(私が死んだら、総務から発注された白い花束がこの机にも置かれるのだなあ、とか)。なんだかストレートに発散できず、集中力や思考力が落ちている。精神的に疲れている。お葬式があれば涙のひとつでも流してカタルシスが得られるのだろうが、それもない。葬式って、本人のためではなく、残された人のためにやるものなのだなあ、とつくづく感じた。
今右足から歩き始めた。左手の薬指が凝っている。すれ違った人のシャツが肩掛けかばんのせいでずれている。丸い薬瓶の横に使われなくなったブックカバーがある。ハヤシライスの粘着度がちょうどよい。・・・普段気にしない細かいことが気になる。逆に大事なことに注意を払えず、今日も外食先に傘を忘れて取りに帰ったり、会議でまったく違うページの報告書を読み始めたりした。
うつ状態だろうか?ちょっと違うような気もする。
自分も健康に気をつけようとか、時間を大切に生きようなど、彼の死から意味を引き出せばよいはずなのだが、そういう自分に都合のよい解釈をすることに抵抗を感じる。あのお星様になったのね、などといったメルヘンチックな解決もできない。かといって本気で彼のことを考えてどうこうしたいわけでもない。職場の机は斜め前なのに、精神的には中途半端な距離。そういう存在が突然消滅するという経験に、どう対処してよいのかわからない。しっかりとした宗教心があれば、死後の世界を信じたり、すべてを抱擁してくれる創造主に死者を委ねて安心することができるのかな?
とりあえず、疲れているというからだのメッセージを重視して、休養をとるようにしよう。そう思っていたら、今度は、まったく親しくない、しかし義理はたっぷりある、85歳の仕事上の関係者が亡くなられ、こちらは(おそらくとても盛大であるだろう)通夜に行かなければならなくなった。ああ、たくさんの関係者に挨拶しなければならない。会いたくない人もたくさんいる。やっかいだなあ。ふう。