ergo sum

健康ブログであるような、ないような

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クリスマスと「光」

みなさまにメリー・クリスマス!
家の中では温かく幸せな冬になりますように。


sinkoさんのコメントがあったので、なんとなく「光」ということを考えていた。
キリスト教の神様というのは、暗闇のなかの光だ、というイメージでとらえている。信者だけにその光が見えて、そこから恩恵を受けられるのだろうなぁ、と。だが考えてみたら「光」なのだから誰にでも見えるのかもしれない。
今日は息子と『レ・ミゼラブル』を見てきた。ミュージカル版の映画化だが、とてもよい。舞台上だと、声を張り上げる絶叫型の歌手が主流になるが、ここでは音量は小さいものの、せりふを語るように繊細な感情を込めながら皆が歌っていて、よかった。なにせ音楽が異様に美しいもの。隣の席の女性は終始鼻をすすりっぱなしだった。
とくにマリウスの「カフェ・ソング」には泣きそうになった。マリウスはコゼットの恋する名家の若者で、普通は優等生的でつまらない役なのだが・・・この人は、うまい。革命で友をすべて失って自分だけ生き残った寂寞を、思い出のつまったがらんとしたカフェで歌う。
さて。その中のジャベル警視の投身自殺直前の歌の歌詞は、「私は空の光だけを目指して生きてきた。だがその光が消えてしまった。とてつもなく孤独だ。生きる意味はない」というような内容だ。彼の「光」とは、彼が考えるこの世の「正義」であり、それは人々を照らし、社会を動かす、絶対の規範であるはずだった。しかしジャン・ヴァルジャンとの接触によって、善悪二元論の誤謬や人間の可塑性に触れ、その「光」は消えてしまった。それ以外の光を見つけ出そうとしないジャベルの迷妄さを笑うことはできるが、その「光」だけに忠実に生きた彼の姿勢は誠実でもある。この話で一番好きな登場人物だ。
見ながら思ったのだ。外界の「光」には、いっぱいまがい物がある。「セイギ」とか「アイ」とか「コウフク」とかいう、ハデな色の、安っぽいネオンライトだ。最近は省エネ型LEDの「ドウジョウ」とか「フッコウ」とかいう光も流行だ。
この「光」というのは原作者ユーゴーの固有のテーマで、人類は光に導かれて「進歩」し、「発展」し、より幸福になっていく、という信念に貫かれている。楽観的な理想主義や進歩史観は愚かだし危険だと思うが、こうして舞台化されると、比類ない光芒を放っている。その魅力に惹かれている自分に気づく。
ジャン・ヴァルジャンのように神の愛や真実に触れた者だけが、本物の「光」を理解するのだろうか。
はたして病や死と対面した人間は、本当の光を見つけることができるのだろうか。相変わらず「ケンコウ」とかいう得体のしれないライトの周りを夜蚊のようにぶんぶん飛び回っているだけ…かもしれない。
もしかしたら、まずするべきことは、自分の「中」に「光」を点すことではないだろうか。そういえば・・・私の中には「光」がない。ただの空洞だ。だから体が悲鳴をあげている。
セーヌ川に落ちていくジャベルを見ながら、そんなことを考えていた。
レ・ミゼラブル~サウンドトラック