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 「加害者側にも事情がある」

6/29放映のバラエティ番組(太田総理)での民主党議員平岡氏の発言がYouTubeでアップされていた。息子を殺されたにもかかわらず、加害者が少年だったというだけで泣き寝入りを強いられる被害者家族。「加害者は擁護し、被害者は死人に口なしなんですね」、だから少年法廃止に賛成だ、と訴えるそのお母さんに対して、平岡氏はこんな発言をしている。
「加害者の人に死の恐怖を味あわせるということで青木さん(被害者の母)が本当に納得できるのかどうか。むしろ悪いことをした子どもだちはそれなりの事情があってそういうことになったと思う」
「事情って何ですか」と青木さんが怒った。


加害者側に加害に至る「事情」があったとしても、被害者側に殺されるだけの「事情」は何もない。加害者に不幸な生い立ち等の事情があれば、それは量刑の減免にはなりうるとしても、罪そのものが消えるわけではない。しかし「事情」の言葉にはその人を無罪にする響きがある。背景があることと、無罪であることを混同し、論旨をすり替えることをしないでほしい。
「加害者側の事情」がことさらに取り上げられるのは、加害者が有力な場合だと思っていたが、どうもそうではないようだ。「被害者が無力」だからなのだ。まして死んでいたら、圧倒的に無力なので、それにつけ込んで加害者たちは本能的に自己正当化をするものであるようだ。
「加害者の人に死の恐怖」発言も遺族の感情を逆なでする発言だ。死の恐怖を味あわせる責任があたかも被害者遺族にあるかのような物言い(法治国家なんだから責任は「法」にある、個人にはない)、そしてそのようなサディスティックな嗜好をもつ者として公の場で被害者遺族を貶める物言い――これもまた、被害者側が圧倒的に「弱い」から、いかに異常な人格であるとラベリングしても構わない、という強者の驕りが生み出す発言の典型だ。
加害者は未来ある純粋無垢な少年、それを守る俺たちは絶対に偉い、という日本式な「お子さま天使説」や浅薄な性善説。それに対し、被害者遺族はヒステリックかつ感情的に破綻をきたした「主婦」にすぎない、という偏見。ここにもある種の男女の二項対立的なステレオタイプが露見している。こういう偏見を皆が暗黙のうちに認め、テレビで強化させているように思われてならない。

http://jp.youtube.com/watch?v=qmjLPH9CKGA&mode=related&search=