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 映画『ダウト〜あるカトリックの学校で〜』

1964年NYの学校で、有力な神父と男子児童の不適切な関係が疑惑にのぼる…スキャンダラスな話なのか、それともそれをとがめるシスターの正義の戦いなのか、どちらにしても好きなパターンだったから、映画を見に行った。結論から言えば、そのどちらでもなく、神父とシスターの心理劇だ。メリル・ストリープ演じるシスターはとてもよかった。
(ネタバレあり)シスター兼校長は、具体的な証拠が何もないままに神父を追い詰め、最後に神父は彼女の気迫に負けて、他校へ転出する。だが皮肉なことにそれは上位の学校へ、で、まんまと「ご栄転」してしまうのだ。うん、現実はそんなものだと思う。こういう構造そのものがとてもリアルで、どの時代どの世界でも同じだと思わされた。
一般に性犯罪は親告罪であり、被害者が届け出ないと成立しない。ところが加害者が大きな権力をもっていたり、被害者が騙されて加害者をかばったり、あるいは訴え自体が自分の不利益につながるため、訴えの発生する割合はたいへん低い。この映画でも、シスターが被害者の黒人児童の母親に、こんな異常なことを、と当然のように訴えかけたとき、母親はこう答える。「(神父の)好きにさせてやればいい。…それを望む子もいるんです。」その児童は孤立した存在で、神父以外に親切にしてくれる人がいない。子どもの出世のためにはむしろ神父はありがたい存在で、貧困の前にはモラルも尊厳もない…そういう露骨な力関係が、貧困層にとっての唯一の「現実」なのだ。
被害者に責任がある、被害者が誘った、被害者がそれを望んだ…これが加害者の口癖だ。実際に被害者が「望ま」なくても、社会構造上、加害者(権力者)の愛顧にすがって生きなければならない立場にあれば、容易に責任が転嫁されてしまう(男女関係もここに入る)。「俺たちこそ被害者だ」と、痴漢やセクハラの加害者たちはこぞって言うではないか。彼らは地位があるから、倫理にもとる行為をしても、罪悪感がない。だから責任転嫁はアタリマエだ。(ちなみにフランスでは、夫婦間でも強姦罪が適用される。進んでるなあ。)
シスターは全く証拠のないままに、自分の人生の経験と勘を信じて戦う。しんどかっただろう。神父はといえば、毎週日曜日の町の数百人の公衆を前に、「疑惑について」「不寛容について」と次々シスターを暗に批判し、報復をほのめかしつつ、自己正当化する説教を繰り出す。まさに「権力」。ぞくっとする。
それでも叡智によってこの神父を追い払い、児童たちがこれ以上餌食になるのを防いだ。構造的な悪はなくならなくても、自分の畑を守った。シスターの職業的な責任感の勝利だと思う。こういう人がトップにいる組織は、やっぱり強い。やっぱり守られる。(最後にシスターが泣くシーンは蛇足だと思う。私だって弱い女なのよ、と脚本家がアピールさせたかったのか?)
余談だが、日本のカトリックの女子校でも、シスターが歴代の校長を勤める。ところがシスターの高齢化で後継者がおらず、男性が校長になったり、それを機に内紛をかかえる学校が最近少なくない。そのへんのごたごたには、確実に日本のジェンダー観が投影されていて、見苦しいものだろうなあ、と想像する。
ダウト―疑いをめぐる寓話