ergo sum

健康ブログであるような、ないような

はてなダイアリーからの引越しにつきリニューアル模索中。

引き続きどうぞよろしくお願いします。

 たっくん

息子、小学二年生。喬は食べるのが遅い。先に食べ終わった父と母は、いつも待たねばならない。「パパもママも終わったのにーたっくんはー」と夫が言いかけたら、「終わった?パパママ人生終わった?」とうれしそうに一言。最近学校で流行っているしゃれらしい。計算が「終わった」という友達に、「なに? 人生終わった」というのが流行っているのだそうだ。人生が希望と可能性に満ちている子供だから言える言葉だ。面白かったのでとにかく笑ってやったが、内心ではむかついた。私の人生が終わった、などとたとえ冗談でも人に言われたら。喬に言った、「たっくん、そういうこと、ほんとうのおじいさんおばあさんに言っちゃだめだよ。わかる?傷つく人もいるんだよ」
 それに続いて。「大きくなったらぼくのなりたいもの、増えたよ。おすし屋さん(最近味付けのりでごはんを巻いておすしを作るのがマイブーム)。えっとだから、病院と発明家と恐竜博士と大工とドッチボールの人と家具屋さんと、で何だったけ、そうそう、おすし屋さん」おお、君には無限の選択肢があってうらやましいことだ。君が大きくなる頃、そこに私はいるのだろうか、と考えてしまう。たとえば喬が大学生になる10年後に私が生きている率は、統計によれば93%なのだ。たぶん「いる」だろうけれど、T医師の言ったとおり、「逆に20人に1人は亡くなる、ということでもあります」。
 「いない人になる」、そういう言い方はなんだかわかりやすい。