ergo sum

健康ブログであるような、ないような

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きのう乳がんの診断を受けた。
胸のしこりに気づいたのはその一週間ほど前。パチンコ球のような硬いかたまりだった。家庭用医学書を調べた。しこりの周りの皮膚がひきつれる、がんに典型的な「えくぼ症状」などがあったので、これはかなりまずいな、と思っていた。だからがんなるものに直面して、自分が死ぬんじゃないかと恐れたり、ショックを受けたり、内面的に荒れたりする心理状況はその数日間にやってしまっていた。私はもともと悲観的なのだ。そして診断を受けてみて気づいたのは、実は「死」そのものよりも、がんかどうか、死ぬかどうか、そういう「わからないこと」こそが怖かったということだ。病院で宣告を受けた瞬間、むしろ安心したと言えるかもしれない、少なくともがんだということがわかったので。いつ死ぬか、については相変わらずわからないが、人はいつか必ず死ぬ、ということを受け入れれば、それが「いつか」ということにはそれほどこだわらずに済むような気もしてきた。それでも、普通の生活では、人は自分がいずれ死ぬということを、存外自覚していないものだ――だから交通事故などにあうとたいへんなショックを受ける――と気づいた。
そして。これまでと違う毎日が、違う人生が、始まったような気がした。もしかしたら私の体はそれをずっと無意識的に望んでいたのかもしれない。
もちろん治癒率はたいへん高い病気なので、すぐ死ぬとは思わない。最短でも2,3年はだいじょうぶだろう。だが、少なくとも無条件にあと30年も40年も生きるのではないこと、もしかしたらあと5年や10年の可能性もあるのだということ、それを自覚して生きるのとそうでないのとは、かなり違う。もともと私は「死」という主題に関心をもっていたのだが、それを抽象的でなく、直接個人的な問題としてとらえうる機会を得たのは貴重なことだったかもしれない(すくなくとも交通事故で不慮の死をとげるよりははるかにいい)。
 今の社会的地位や周りの人間にはそれほど執着はないので、どうしても生きたいとは思わない。どうしても長生きするだけの価値のある人間だ、とも思わない。私がいなかったら、悲しむ人間は数人いるかもしれないが、世の中は回り続けるだろうし、そんなものだろう。