ergo sum

健康ブログであるような、ないような

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 いつまで…

このところ何で疲れてるかって、子どもの中学受験だ。自分の受験の場合は、自分が勉強するかしないか、わかるかわからないか、だけのシンプルな話なんだが、子どもの場合は、お互いの精神戦になる。まず、どうやったらやる気にさせられるか。将来に役に立つなんていう理由は子どもには理解できない。でも友だちが受験するから自分もする、という。いったいいつになったら本気になるんだろう、とぼやきながらお受験雑誌を開いたら、先輩ママのコメント「最後まで本気にはなりませんでした」orz。
そういえばアウグスティヌスの『告白』のなかに、「いったいいつまで、いつまで、待てばよいのですか、神よ」というような言葉があった。いつになったら自分の目が開かれて、迷妄から脱することができるのか、と。usquequemの問いにはそういう真摯な迫力があって、感動した記憶がある。だが答えは、「いつまでいつまでと、問い続けない限り結果には行き着かない」、だ。他方パスカルなんかは、「神を信じてるふりをすれば自然に信じられるからそれでいい」というような、かなりご都合主義的なことを言ってたと記憶する。私個人としては、アウグスティヌスの全身全霊をかけた絶叫の方が、共感できる。
話がそれた。暗記の量が多すぎて困るとか、問題が複雑すぎて困るとか、そういう次元ではない。そもそも頭の中がまだ赤ちゃんの直感的思考で、問題に論理的に対処できない。しかも3月生まれなので精神的にかなり幼い。風呂場で、「シャワーとカラン、どちらから水を出した方が早く温まる?」「シャワー。穴がいっぱいあいてるからあ」「穴があいてるとどうして早いのよ」「水がたくさん出るでしょ」「たくさんって何?水の面積、体積?」「ちがうよ、早く水が落ちるんだよ」・・・このへんになると私が疲れてきて、問いを発したことを後悔し始める。でもこいうことを記述式で正答できないといけないのだ。やつの頭の中が、どのようになっていて、何をどのように考え、何をどのように直したらいいのかを考えるのは、ものすごく私の精神力のいることだ。
それでも、結果にかかわらず、日頃から「なぜ」を問い、答えを考える習慣をつけることはいいことだと思う。また、自分の時間を自分で管理し、努力する経験を身につけることもよいことだと思う。朝から晩までDSでポケモンゲームをやっているよりはいいと思う。まあそれでよしとしなければ。
ふう、しかし疲れる。ついでにいうと、受験校では、両親そろってつきそいにきてるかどうかをチェックされるのだそうだ。お弁当はもちろん手作りにしないといけないし。1月2月は仕事にならないかもしれない。