ergo sum

健康ブログであるような、ないような

はてなダイアリーからの引越しにつきリニューアル模索中。

引き続きどうぞよろしくお願いします。

 動じてあたりまえ

人間なんてみんな日常おこるさまざまな刺激の中で生きてるのよ
動揺してあたりまえ
むしろなんにもどうじなくなることのほうがおそろしいわ 
           (有吉京子『スワン』より)

天才少女の出現に動揺する真澄に対してラリサが言う言葉。子どもの頃は、衣装や外国に憧れて読んでいた懐かしのバレエ漫画だが、最近また読み返してみると、感じることが全く違う。作者の有吉京子は芸術の本質というものを非常によく理解していて、その十全な知識に基づいて主人公の真澄をとことんまで成長させる。真澄が何にどのように気づいていくのか、何を選び取っていくのか、そこの描写がほんとうに緻密だ。
なるほどバレリーナは、舞台の前にいつも腰が抜けるほどの「恐怖」を味わう。その恐怖は、ただ気力で乗り越えればよい、というようなものではなくて、恐怖の本質とは何なのかを、その恐怖に打ち勝つには代わりに何を持てばよいのかを、はっきりと識らないといけない。心と体の両方で。(「自分自身のたくさんの努力と、それを信じる気力だけがお前をささえる」という台詞を、横にいる息子に言ってみたが、通じなかったようだ)
そして、おおざっぱに言うならば、舞踏家が本番の前に味わう激烈な恐怖を、麺棒でうすくうすく10年分くらいに引き伸ばしたのが、がん患者の恐怖ではないだろうか。癒しやガーデニング(素敵な奥様状態)に逃避するのも勝手だが、刺激や動揺が常態だと心得、そこからなにかを引き出していけるかを考えることも価値ある人生だと思う。ラリサはこう続ける。

バレエだって その刺激に敏感に反応できるかいなかによって そこから発展すべき創造性の有無がちがってくると思うわ

息子とテレビでフィギュアスケートを見ていたら、そんなことを考えた。恐怖は、バレリーナも、スケーターも、受験生も、サラリーマンも、みんな同じなのだ。
Swan―白鳥 (5) (秋田文庫)