ergo sum

健康ブログであるような、ないような

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 保冷剤の私

偶然本屋で『断捨離』という本が目についた。モノを片付けることで心もすっきりさせよう、というテーマはあらかじめ想像がついていたが、ヨガの教えから敷衍した明快な説明も面白く、あっという間に読んでしまった。宗教がかったベストセラーだから敬遠していたのだが。
私はモノが捨てられない。部屋が散らかっている。このブログでも、店のポイントカードが捨てられずに財布にたまっていることを執拗に書いた記憶がある。捨てられない自分を弁護するような自己愛的な内容だったが。
本書には「保冷剤」が捨てられない女性の例が出てくる。そうそう、うちにもたくさんの小さな保冷剤がたまっている!(とくに震災で冷蔵庫の電気が止まったときに重宝したから、余計捨てられなくなった)。
不安や恐怖は「失うかもしれない不安」と「足りなくなるかもしれない恐怖」に分類され、いずれも「今」ではなくて「未来」に執着していることの表れだ。筆者によれば、その女性にとっての保冷剤とは女性自身であり、家族に必要とされていない、捨てられるかもしれない不安の投影だという。家族の問題はともかくとして、そうか、私も保冷剤やポイントカードなのだなあ、と納得した。
そういう不要なモノが大量にある家は、私とモノの「終わった関係性」に縛られた呪縛の「場」でしかない。

要は、自分とモノの関係が、生きた関係なのか、終わった関係なのか、それを問題にしているのです。
すでに関係が終わっているのに、そこに居ることを強いられている。
もし、それらが、自分自身だったら、それは、耐え難い環境ではないかと。
振り向いてももらえず、居ることさえ忘れられている、そんな境遇を、ひたすら過ごす日々ーー。
もう終わった関係であるならば、いつかまた使うかもしれないと、不確定な未来を思うのではなく、今、必要とされているところへ送り出していく。


「もったいない」はマータイさんによって世界的に広まった日本語だが、たんなるリサイクルやリユースの意味ではない。エコでもない。モノに執着し、再利用によって得をしようという貧乏人根性、淡い未来への幻想、そんな日本的なネガティブな感情がこの語に巣くっている。昔は必ず、祖母はデパートの包装紙をきれいにたたみ、手に入れた輪ゴムは腕に巻いていたものだ(なんの役にも立たなかったけどね)。というわけで、理想は次の一句だ。引用しながら、私自身も「あっても良し、なくても良し」の境地に行けますように。モノばかりでなくて、命もね。

モノ・コト・ヒトと良い関係というのは、それを背負う自由と、下ろす自由があるということ

断捨離で日々是ごきげんに生きる知恵