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 「永遠」とつく本に限ってくだらない

「永遠」のなんとか、と言われると、青空にすーっと風が吹きこんで、世界の果てまで見えるような爽快感を期待する。ところが、だ。題名に「永遠」とか「悠久」とか入る小説は、だいたいその逆で、浅薄でつまらない(柳沢さんの『百万回の永訣』もそうねー)。
仕事の終わりがようやく見えてきて、ちょっと余裕を気取りたかったのだろう、書店で普段は絶対に読まないような平積みの人気作とやらを二冊ほど買ってみた。その一冊が白石一文の『永遠のとなり』だ。一冊読むのにつかった30分ほどの時間がもったいないと思ったので、そのぶんかっちりと批判させてもらおう。
肺がんの友人とうつ病の「私」の永遠の友情、といった話で、男同士の友情っていう時点ですでにフェミ的には×なのだが… まず病気の設定がおかしすぎる。その友人は肺がんにかかったがいったん完治し、しかし5年後に再発し、9年後に再再発という設定。肺がんの場合はこういう気長な展開はあまりないだろう。乳がんならちょうどありそうな年数だが。「私」も「うつ病」とされるが、何度も手を洗うのは「脅迫神経症」だし、閉所で恐怖を感じるのは「パニック障害」だからそもそもおかしい。著者がパニック障害の経験者なので適当にその症状をくっつけただけなようだが、たぶん、当事者からみれば全然違うと思う(併発してるっていう言い訳をされるかもしれないが、うつ病そのものの描写から逃げているのは確かだ)。
仕事でも小説でもそうだが、勉強不足なのと努力不足なのは、見てすぐにわかる。ばれると気付かずにやっている人間の盲目が、哀れだ。がん死が多い昨今だから、適当にそういう設定にして病気を組み合わせておけば売れるだろう的な安直な発想がいやだ。しかも死を前にした人間の「生きる」ことについての問いかけ、がこの小説のとりえらしいが、ほんもの(のがん患者)がうんうんと納得するような深みがなにもない。そういうの、ばれちゃうんだよー。てきとーに死をテーマにしたらいかんのよー。
クライマックスは死ぬ直前の友人と「私」が小学校の卒業時のモニュメントを見に行って、しみじみする場面だ。だが死と「タイムカプセルネタ」の組み合わせなんて、コバルト文庫レベルでもやらないようなベタな設定だ。で、友人は自分が死んだ後「30年くらい」このコンクリートのモニュメントは残るんだろうな、という感慨をもらすのだが、ここがまた、ピンとこない。あのね、ほんものにとってはね、30年後なんていう中途半端な時間はどうでもいいの。自分が死んだあと、目の前にある缶詰の中身が一週間後に腐りだし、缶詰の瓶の方は2,3カ月この家に残るだろうなぁ・・・そういう実感の仕方なの。こういうところがもう、この本は雑というか、適当というか・・・死なんてこんなもんだろう、っていう紋切り型になっちゃっている。浅薄な感傷でごまかしている。思索や想像力が欠けている。
しかも福岡を舞台として、バリバリの方言や地域色で描かれた無職&病人(=弱者、周縁者)の日常をつづりつつも、実は俺たち偉かったのよね、的な述懐が随所に出てきて、嫌味な感じだ。二人とも地元の進学校の出身で、頭がよくて、早稲田に入り、一流企業に入ったが、仕事のことでトラウマを抱え、4、5回離婚を繰り返し、いろいろな女の間を転々とする・・・ってゆう設定自体が「堕落した男のグチ」の類型にぴったりあてはまる。その意味で日本の近代私小説の流れを立派に継承している古典的作品とは言えるのかもしれないが(嫌味をこめて)。その経歴は著者自身の経歴そのものらしいのだが、なんでこういうテーマに進学校だの早稲田だのを出さなくちゃいけないのだろう。
著者はもう50過ぎの立派な中年なのに、精神年齢が少年少女文庫的なレベルなんだよなぁ。でも最近の幼児化した読者(とくに男)にはこういうのがかえって受けるのかなあ。居場所がなかったり家庭を崩壊させるのは勝手だし、だらだらととりとめなく二人の日常を書くのもかまわないが、テーマの「友情」と「死」くらいはきちんと掘り下げてほしい。どうしても他人にこんなぐちを読ませたいと思うなら、タイトルを変えて、「ダメ男たちのララバイ」みたいな、わかりやすいようなものにしてほしいわ。
というわけで、努力不足かつ勉強不足で、「死」の扱いが浅薄で、「生きる」テーマも中途半端、それでいて病気や死を売りにしている気配濃厚なので、×をつける。
永遠のとなり (文春文庫)