ergo sum

健康ブログであるような、ないような

はてなダイアリーからの引越しにつきリニューアル模索中。

引き続きどうぞよろしくお願いします。

 できることを考える

人は誰でも何らかの障害をもっている。自分は何ができないか、ではなくて、自分は何ができるのかをしっかりと見つめるべきだ。

ホーキング博士の言葉だ。テレビをつけたらALSの特集をやっていた。彼は20代前半で発病してから、40年近くこの病気とつきあってきた(「戦ってきた」という言葉は使いたくない、戦ってやっつけられるような病気ではないのだから)。手が動かせなくなってからは頬の筋肉や視線でPCを動かし続けた。たいへんだったのは、普通は紙に書いて行うような長い計算を、手が動かないので、全部頭の中でやらなければいけなかったことだそうだ。だがこのおかげで、ますます脳は刺激され、活動が活発になり、深遠な理論を生み出しえたのだろう。
乳がんにひきつけて考えるならば、この病気のせいで自分は「堂々と温泉に行けなくなった」というようなことを嘆くのはバカらしいということだ(温泉に入りたければ入ればいいし、いやなら入らなければいい、それだけ)。運動能力も知的能力もなんら変化ないのだから、何でもできる。何も変わりない。むしろ時間を大切にできるようになった。いいことだらけだ。
ところが「人と同じ」であることに、至上の価値を見出す日本人は、欠けた部分にばかり目がいってしまう。そうそう、その同じ番組の次の障害の女の子は、脊椎二分症で歩くことは絶望的だと言われたけれども、母親と本人の血の滲むような努力で、少し歩けるようになった、という美談だった。もちろん、風を切って走ったりするのはとても幸せなことではあるけれど、無理して歩かなくてもいいのにな、普通の幼稚園に行かなくてもいいのにな、と思った。本人が満足して、楽しい毎日を送ればそれでいいと思うんだがどうだろう。
そして、一番ショッキングだった情報はこれだ。日本人のALS患者のうち、70%は人工呼吸器をつけずに亡くなっているということだ。全ての筋肉が動かなくなるので、いずれは呼吸もできなくなる病気なのだが、人工呼吸器さえつければ、ホーキングのように何十年も生きることができるかもしれない。でも声がでなくなるとか、自然でないとか、人に迷惑をかけるとか、そんな理由で呼吸器をつけない、つまり自ら死を選ぶ人がこんなにも多いのだな。もちろんこの病気のつらさは並大抵ではないから、勝手な意見を軽はずみに言うことはできないけれど、なんかここにも日本人独特のメンタリティーが表れているように感じた。私がもしALSだったら、Locked in(意識はあるが、目を含め、いかなる意思表示も不可能になる状態)になっても何年も行き続けるような、そういう精神力をもてる人間になりたい、と思う。ちなみにそのホーキングさんは、先日無重力空間で浮遊体験を行ったうえに、次は宇宙旅行を目標にしているそうだ。いいなあ。