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 「わたしは認識の鬼でありたい」

「ガン本」をチェックする習慣がついてきた。芸能人の体験談などを除外しても、7割方が「ハズレ」であることもわかってきた。ネットサーフィンで偶然に頼藤和寛氏の名前を見つける。教え子らしき人のサイトで、彼に対する全幅の尊敬と愛が感じられた。これなら読んでみよう、と思ったのが『わたし、ガンです ある精神科医の耐病記』だ。うれしいことに「アタリ」だっただけでなく、著者に対して素直な友情と尊敬を感じることができた。
たいへん聡明で経験豊かであるにもかかわらず、彼は自分を特別視しない。いや、聡明で経験豊富だからこそ、世の中には自分の「認識」と世界との「関係性」しかなく、地位や身分や、まして病状や治療法などに本質的な意味がないことを知っていたのだろう。医者だということを隠して普通に近所の病院に入院しようとする。名医ショッピングを生きがいにし、私を失望させた柳原和子とは対照的だ。
ヒロイックな闘病記、ヒューマニズム精神科医ならではの人生の洞察等々、読者の期待に応えた「売る」ための本ではないことを冒頭で宣言し、本文はその通りに淡々と進んでゆく。ガンとは何か、侵襲とは何か、EBMとは何か…そして最終章の「寸詰まりの余生」では、同様にして「私にとっての死」について訥々と語ってゆく。著名人の生没年がどうも気になってしまうとか、身の周りのプラスチック製品は自分よりも長くこの世に残るだろう、缶詰ならさらに長く5年くらい残るだろう、そういうことを、著者はただ考える。全く感傷がない。そしてそのことに、私は嗚咽をもらしてしまう。ロマン派の楽曲ならば予見しつつ人工的に感動してゆくものだが、擬古典主義のパガニーニやクラウスで突然あまりに美しいフレーズが現れて動揺してしまうのと、似ている。
この世には私の認識しかない。身体や魂に絶対的な価値はない。そう思うと死はそれほど怖くない。あとは、「うかうか」生きないよう、私の認識を鋭くしなくてはならない。

われわれの心や身体は、このように自らを防衛する仕組みを備えているから、油断すると必ず不都合ないし脅威的な現実を歪曲し、あるいは糊塗してしまう。心のあちことに夢と希望が芽生える隙間を作り始める。わたしは、これを自分に許すことができない。認識はすべからく禁欲的でなければならぬ。たとえそのために精神衛生を損ねて免疫が低下し余命を縮めることになるにせよ、現実と願望を混同したくない。わたしは「認識の鬼」でありたいのだ。(pp.163-4)

リンパ転移のある、根治の見込みの極めて低い大腸ガンであった。読了して、不安に震えながら著者解説を見る。「2001年4月没」とあった。たった一時間前に出会い、読書を通して友人のように好意を寄せた頼藤さんが、それなのに今はもう死んでいる、という事実を突きつけられ、胸がざわめく。手術後半年でこの本を書き、一年も経たないうちに亡くなったのだ。だが、不思議と虚しさは感じなかった。こんな最後の一節だったから。

永遠も一瞬も死者にすればたいした違いではない。だから本気で〔読者諸氏との〕再会を約すわけではないが、われわれにとって永遠と無限の時空で隔てられたとしてもなにほどのこともないのである。

わたし、ガンです ある精神科医の耐病記 (文春新書)