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 映画『マリーアントワネット』

ベルバラ世代の私としては、一応見ておこうと思って行ったのだが…
はい、映像はきれいでした。衣装や装置もきれいでした。主演女優も(現代的な意味で)魅力的な方でした。E.ルヴェの本に沿って歴史検証もちゃんとしてます。
が、これは映画ではない。なんの「解釈」もないからだ。その責任はひとえに監督にある。
マリーを聖女扱いしたり、悲劇のヒロイン扱いしたりする必要はない。嘘くさいから。でも、いくら「女性監督」だからって、20世紀的な意味での「普通の」女性としてマリーを描ききる必要もあるまいに。不本意な結婚をし、婚家のしきたりに耐え、買い物に精を出し、浮気に燃え、最後は子どもを守る存在になって終わる…舞台が革命のヴェルサイユでなかったら、な〜んの面白みもない人生だ。
身分は非凡だけど中身は平凡だということをことさらに強調して、とくに「スイーツと男が大好き」な人物に仕立てて、女性客に共感させることばかりに監督が腐心していたのが、うっとおしい。監督の集客のための「意識」がスクリーン全面にみなぎっていて、ああ、21世紀だなあ、と残念に感じた。マリのちんけな欲望を描くことだけに制作費何億円(?)を使ってしまっていいのだろうか。ボードリヤールじゃないけど、ここにあるのはたんなる消費の欲望で、生の根源的な欲望ではない。革命を舞台にするのなら、もっと描くべき課題がいろいろとあるんじゃないのか。最後のギロチンの場面もカットされていたし。なんの解釈もしないでそのまま映画を作ってしまう軽薄さは、何も考えずに与えられた人生を送るマリーの軽薄さに通じるところがある。それが「女としての共感」てやつなのか?女にはそういう人生しかないのか?じっくり深くものを考えちゃいけないのか?
現代世界の大衆を「ごまかす」のに、これからどんどんこういう映画が作られていくんだろうなあ、と思った。やっぱり私は、オスカルが「フランス万歳」と叫びながら日本の特攻隊のように討ち死にするヒロイックなベルバラ的世界の方が好きかもしれない。
喬の日記いわく、「マリーアントワネット見ました。たのしかったです。おわり。」 私、「それじゃあちょっと。どこが面白かったのか具体的に書かないと。たとえばデュ・バリー夫人が猿を飼っていたとか…」 喬、「でゅばりーふじんがさるをつれてたところがおもしろかったです。おわり。」