ergo sum

健康ブログであるような、ないような

はてなダイアリーからの引越しにつきリニューアル模索中。

引き続きどうぞよろしくお願いします。

 たいへんだから、がんばらない

夫とのやりとりのあった一週間前くらいから、いやな気分が続いていた。
そうしたら、捻挫、口内炎、ものもらい、肌荒れ、喉の痛み、耳管開放症と、体調の悪さのしるしがフルコースでやってきた。
うーん、体って、ものすごく正直だ。
しかも今週は火、水と夜まで会議だったうえに、土日も臨時の勉強会でまったく休みがない。
準備する時間もない。昨日の睡眠時間は3時間(まずい)。
嫌だあ、困ったあ、と思うから、余計体調が悪くなる。


そうしたら今日の夕方をきっかけに、不思議と良い方に向かった。
弁護士と温かい雰囲気で話せたことも大きいが、
ほかにも同僚が仕事をひとつ代わってくれたとか、
偶然立ち寄ったスーパーで有機の豆乳が買えたとか、
たまたまご馳走を買ったその日に息子が早く帰ってきてくれたとか、
闘病ブログで励まされる一句を見つけたとか、
amazon prime musicでアトランダムに聞いた賛美歌320番に癒されたとか、
そんなたわいのないことだったのだが。
そしたら不思議と元気が出て、トリスタンとイゾルデをガンガンに大音量で聴きながら仕事の準備が進められた。
そしたら7時頃、yoccyannさんのコメントが舞込んで来た。
呼吸ができた。
sinkoさんもいっしょに呼吸してくれた。
・・・そしたらものもらいの痛みが治まってきた。


ふと、賛美歌320番は「主よ、御許に近づかん」だったことに気がついた。
映画『タイタニック』で沈むときに、カルテットの人たちが弾いていた、あの曲だ。
(あの映画の主人公はディカプリオなどではなく、あの演奏家たちだと思っている。)
死に瀕した人ばかりでなく、
生きていて、そして一歩だけ神に近づいた人に対しても
安らぎと祝福を与えてくれる曲だったんだね。


良いことはいっぱいある。
そう思ったらどんどん良いことが向こうからやってくる。
そうしたら、気持ちが上に向いてくる。
「元気になった」という表現は使いたくない。
元気にバリバリやろうとするから疲れるのだ。
水平の軸がわずかに右上に傾いた感じの、良さだ。
とにかくこれ以上悪くならない、という確信だ。
それで十分だ。


おととい発見して、大いに共感しているハタケヤマ様のブログ(「夫がガンでも優雅で楽しい生活」)がある。
彼女のご主人はかなり危険な状態なのだが、だからといって
「かいがいしく尽くす愛情深い悲劇の妻」なんぞはこれっぽっちも演じないで、
ちゃんと自分を優先して、思うがままに怒ったり、叫んだり、正しく合理的に生きていらっしゃる。
「毎日お見舞いに行けないのは、夫が遠くの病院を選んだせいだ」とはっきり責任のありかを主張できる。
そして、「人よりも困難な状況で、人一倍努力して結果を出さないといけない」という自己イメージは、そうしないと自分は人から愛されない、という低い自己評価が根底にある、とおっしゃる。
そのとおりだ。


育児や夫の病気や母親の怪我でこの方もすごくたいへんだけれど、
もしかして私もそれに負けないくらいたいへんなんじゃないだろうか、と気がついた。
家庭のこと、仕事の重責、自分の捻挫、自分の病気などなど、
人に自慢できる程度にはたいへんなはずだ。
(「たいへんじゃない、これくらい平気だ」、と思おうとしていたけれど)


私はたいへん「だから」、がんばろうとしていたのではないか?


しかし逆じゃないか?
たいへん「だから」、手を抜いていいのではないか?
ちょっとやそっとミスをしたり、メールの返事が遅れたり、用件を忘れたり、
あるいは仕事や家事が雑になったり、
食器を割ったり、
割ってもちゃんと片付けなかったり、
普通ごみの日にごみを捨て忘れたり、
・・・しても、「よい」のではないか?
なんでこんなにがんばろうとしてたんだろう。


よし、徹底的に手を抜いて、
ゆっくり呼吸しながら歩こうじゃないか。
私はたいへんなんだから。