ergo sum

健康ブログであるような、ないような

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 生をしっくりさせる

連休でゆとりがあったので本棚を片付けていたら、池田晶子の『死とは何か』が出てきた。がんで早逝した哲学者の最後の本で、タイトルに「死」が入っているとくれば、食指が動く。だがパラパラっと中を見ても、言葉は大切だ、とか、私とは誰なのかよくわからない、とか、あたりまえのことしか書いていない。そのまま本棚の奥にしまって忘れていた。『14歳の哲学』がベストセラーになって書店に山積になり、いわばカノンのようになってしまったことも、読書から私を遠ざけたのかもしれない。
古本屋に売ってしまおうか、と思いながら中を読み始めた。

私は無理に長く生きたいとは思っていません。成り行きに従って生きて死ぬことがいちばん幸せなことです。病気になることも、ある意味では自然です。〔…〕死を恐れる理由はありません。生命は有限であるからこそ、価値がある。もしも、生命が無限になれば、価値もなくなるはずです。生命に執着することは、生命が有限である限り、人を不幸にします

神について、あなたは神について考えたことがあるか。
あの神でもどの神でもないこの神、あなたがあなたであり他の誰でもないあなたであるそのことのなぜとしての神について、だ。
ひとりがひとりとしてなぜを問うそこに、教団も教理もいっさい無用だ。
あらかじめの神などそこにあるはずがないのだ。
ひとりで、ひとりきりで、己の全存在によって全・存在を問い詰めてみよ。
他の誰かではないあなたが居るとはどういうことか。
他の誰かではないあなたが死ぬということを、あなたはうまく考えられるか

そう、「無」。絶対無、何もない、死ねば無になる、それが恐いと人は言う。
しかし、考えることのできない「無」を、なぜ恐れることができるのか。

ああ、そうだ。自分が今漠然と思っているようなことが、ちゃんと書いてある。すごいなあ。
池田さんは、あたりまえのことしか言わないからすごいのだ。全く道徳的でないからすごいのだ。


感動していると、そこへ喬(息子)がやってきて、言った。
「前、成績悪かったとき、あるじゃない?あのとき、なんかしっくりしなかったんだよね。心が体に合わないってゆうのかな。睡眠不足のとき、よくなるんだけど。でも今日はね、ちゃんとしっくりするんだよ。よかったよ。それってすごく成績に関係あるんだよね」
「ああ、幽体離脱みたいな感じだね」
「そうそう」
今日は化学オリンピックとやらに出場して、調子がよかったらしい。神経症ぎみの息子ならではの感じ方だが、これは正しいと思った。精神と体が合一することが、あるいは合一させようとすることが、人間にとって一番大事な営みだ。デカルト的二元論の弊害と言えばそれまでだが、私はこれまで体を完全に無視してきた。その報いをよく知っている。
池田さんの言葉と、息子の言葉が同時に私の元へやってきたことにも、何かの意味があると思った。生に執着するのは貧しいことだが、生は、自分が認容するかたちで正しく生きなければならない。


これはブログに書こう!と思って今PCに向かっていたら、再び喬が来た(おい、1:30だぞ、もう寝ろ!)。
「今ビオフェルミン飲んだんだけどね、水だけ先に流れて、薬だけ喉に残っちゃったけど何とか飲めて、ちょど満員電車にぎりぎり駆け込んだ感じがしたよ」
にっこにっこしていた。ご機嫌なのはよくわかった。金曜日の祖父のお見舞いのショックから、自分なりに立ち直っているのかもしれない。

死とは何か さて死んだのは誰なのか