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健康ブログであるような、ないような

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 「乳ガンなんか2週間でw」

中島梓さんの『ガン病棟ピーターラビット』を読んだ。遺作の『再発』と比べてこちらの方がずっといい。『再発』は乳がんの17年くらい後にすい臓がんにかかるときの話だが、『ピーターラビット』はいい意味で悟っていて、力が抜けている。書き下ろされた、ですます調のやわらかい文体のせいもあるだろう。『再発』は「だ」調の個人メモのような文体だったから、読みにくかった。
「大きな病気の既往歴」はないかと聞かれて「17年前に乳がんを」と答えた中島さんに対して、医者はあざ笑うように答える。

「乳ガン、あーあんなもの、手術じゃないから。あの程度のもんは大きいとはいえないから、悪いけど。今回の手術と一緒にしないでね。...乳ガンなんか、2週間くらいで治っちゃうんだから、いまは」

乳ガンは病気じゃないらしい。たしかに初期なら手術すればそれで終わりだし、体の外側にある器官なのでなんの影響もないし。「それなりに死線をくぐったつもり」(中島さん)だったり、世間の視線を内面化して「たいへんな病気をしたかわいそうな私」だと思い込んだりすることがばからしくなる。それでも乳ガンの細胞が体内に残っていて、いつ再発するかわからないのだから――とはいうものの、毎日誰でも5000個くらいいろいろながん細胞が体内に誕生しているわけだから、こんなことでびくびくするのもばからしい。というかこのような考え方そのものが病気を引き起こすような気がする。
確かに最近はホルモン剤を飲む以外に生活はまったく乳ガンと関係なく、どんな意識で生きたらいいのか戸惑うことがある。年齢的に仕事だけは次々に忙しくなるので、そのときに「ガンの通院加療中なのでちょっと」と断ることもできれば、「はいはい」と引き受けることもできる(同僚が私の病気を社内中にばらしてくれたおかげでみんなが病名を知っている)。いやな仕事は前者で、楽しい仕事は後者で答えてきたが、そろそろ病気の逃げ口上を使うのは卑怯な気がしてきたところだった。そろそろガン患者だっていう意識とはさようならをしたい。
ただし、いや、だからこそ、別の意味で健康には気をつけなくてはと思っている。中村司さんの表現を借りると、人生を生と死という二つの極をもつ直線として考えると、ガンというのは確実に死に向かっている現象を言うのだ。自分にはわからない細胞レベルの偶然の変異なのではなくて、むしろ自分の気持ちや考え方が体を死の極に向かわせていたような気がしてならない。だからすべてを生の極に向けたい。そんなことを考える。
ガン病棟のピーターラビット (ポプラ文庫)