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 「だまされた」と言う権利

これまでは毎日塾で、夜10時頃まで不在だった息子が、受験が終って急に毎日自宅にいることになった。時間があるということと、受験なんていう小さなことでくよくよしてほしくない思いからだろうか、なんか衝動的に『7月4日に生まれて』のDVDを二人で見た。戦争の悲惨さを見れば、この世の中に解決すべき大問題が山積してることがわかるのではないか、という思いだった。また、通常美化されている「アメリカ」という国の、生の姿を見てほしいという思いもあった。
物語は、ベトナム戦争に志願兵として参加した若者ロン(トム・クルーズ)が負傷して帰還し、挫折や退廃の後に反戦運動の闘士になっていく、という話だ。主要人物たちが負傷していく場面で、喬は「この戦争、誰のせいなの?」と聞いた。それは問いとしては当然至極のものだろう。だが国家や大統領の責任を追求するのではなくて、戦争に参加した青年の心境の変化を中心に物語は進む。「うん、変化の物語だね」と国語の読解法を身につけた喬が言う。愛国主義者が左翼系反戦主義者になる、という流れは理解できたらしいが、これが終始主人公の「誇り」の周りに組み立てられていることには気づけなかったようだ。ヒーローになりたくて志願、敵を殺害するつもりが錯誤で民間の赤ん坊や友人を殺してしまい、野戦病院では人間扱いされない。下半身不随に対して寄せられる周りの同情や哀れみ(ロンの男性機能が失われた場面で息子が涙をぬぐっていた、おいおいポイントはそこじゃないよぅ!)。だが最後は反戦運動を行う自分自身に誇りを見出す。いやあ、つくづくアメリカ人は(というか男は?)よくわからない〈ホコリ〉のために生かされ、また殺されているなあ、と思う。監督はそれをきっちり表現しようとしたんだと思う。
さて、最後の方のかっこいい反戦スピーチでロンはしきりに「俺は国にだまされた」と主張する。もちろん意志薄弱な高校生にうまいこと言ってリクルートした国家が悪くないわけではないが、志願兵としての自己責任もあるはずだ。それを棚に上げて100%国家のせいにできるお気楽さは、やっぱりアメリカ的な気がする。うらやましいくらい単純だ。自分は絶対悪くない、と考えるアメリカ人と、すべて自分のせい、と罪悪感の泥沼の中に生きる日本人と・・・立派な国民性ね。
いや、あのね。「がん」だって、国や企業にだまされた、と言えなくはないのだよ。電磁波とか、電波塔とか、食品添加物とか、情報非開示とか、牛乳ホルモンの件とか、集団検診の罠とか・・・でも国が私をだましたなんて、日本では言えやしない。一つには国家に「抑圧」されていて、批判する意識や習慣すらないということ(財力も情報も社会的地位もない)。もう一つには、健康もまた自己責任だし、この後期資本主義社会はまさに国家の枠を超えてグローバルに企業が広告・販売活動(=だまし)を行うことで成り立っているということ。だましは競争社会の根幹なんだから。そこで乳がん患者が、国家的詐欺に加担するピンクリボン運動で活躍しようが、反ピンクリボン運動の闘士になろうが、それは自由だけれども・・・じっくり自分と向き合って、自分の弱さや欺瞞を認めるところから始めてもいいんじゃないかな。なにかにだまされるのは、そもそもだまされたいという下地があるんだから。だから自分が「だまされた」と言って他人にくってかかる権利は、基本的に、無い、と思う。冷たいようだけれど。